- 『理科系の作文技術』(1981)
『理科系の作文技術』(木下是雄)
「理科系の作文技術」とは何でしょうか。著者によれば、「理科系の人が仕事のために書く文章で、他人に読んでもらうことを目的」とする文章が理科系の「仕事の文書」であり、そのための技術が「理科系の作文技術」です。
いささか回りくどい定義に思えますが、ここには二つの対比が効いています。
まず、「理科系の人が仕事のために書く文章」という大きな全体においては、「他人に読んでもらうことを目的」にはしない文章があります。具体的には以下のような情報群です。
- メモ、手帳の類
- 実験ノート、野帳、仕事日記の類
- 講義や講演を聞いてつくるノート、文献のぬき書き
- カード類
- 講義や講演をするためのノート
本書が対象にしているのは、こうした文書ではない、というのが第一の対比です。ちなみに、こうした「自分だけが読むもの」においても技術が必要ですし、しかもそれは「他人に読んでもらうもの」の技術にも通じているのですが、その話はここでは置いておきましょう。
第二の対比は、「他人に読んでもらうもの」であっても、詩や小説や戯曲、あるいは心を通わせるための手紙ではない、という点です。こうした文学・文芸的文章とは違い、理科系の「仕事の文書」は、
読者につたえるべき内容が事実(状況をふくむ)と意見(判断や予測をふくむ)にかぎられていて、心情的要素をふくまない
というわけです。
具体的には、
- 用件の手紙やメモの類
- (所属機関内の)調査報告、出張報告、技術報告の類
- 仕様書の類
- 答案、レポート
- 研究計画などの申請書
- (学会誌などへの)原著論文、総合報告
- その他の論説、解説、著書の類
- 構造説明書、使用の手引
が挙げられています。
私たちの「仕事」は?
ここでまず考えてみたいのが、私たちが日常的に書く文章はどこに位置するのか、ということです。
日記などは「自分だけが読む文章」になるでしょうが、それ以外の文章はたいてい他の人に情報を伝える目的を持っており、しかも文芸的な役割は担っていないでしょう。ということは、著者が言う理科系の「仕事の文書」に当たるわけです。
というか、この「理科系の」という表現は不要です。これは「文芸的でない」を含意しているだけであって、私たちの日常的な文章は、単に「仕事の文書」と呼んでも問題ないでしょう。
本書の重要な指摘は、こうした「仕事の文書」においても技術が必要なのだ、という点です。「自分だけが読む文章」では技術はあまり意識されないでしょうし、逆に文学作品のような文章では技術と感性が高度に要求されるでしょう。片方はあまりに簡単すぎ、もう片方はあまりに難しすぎるのです。
その二つに比べれば、「仕事の文書」に求められる技術はある程度普遍的に(あるいは無難に)まとめることができますし、私たちが日常的に文章に書く必要に迫られている点を考えれば、その技術は存外に有用であると言えそうです。
二つの心得
では、その技術の骨幹はなんでしょうか。本書では以下の二つの心得が挙げられています。
- (a) 主題について述べるべき事実と意見を十分に精選し、
- (b) それらを、事実と意見とを峻別しながら、順序よく、明快・簡潔に記述する
実に明快で簡潔な心得です。
少しだけ展開すれば、以下のようになるでしょう。
主題(テーマ)について何を言うべきなのかを吟味した上で、「これは言うべきだ」と判断されるものを、事実は事実として、(自分の)意見は意見として明確にしながら、それらを適切な順番において、適切な記述量で表現する。
もちろん、上記は「言うは易く行うは難し」です。どの要素においても難しさが潜んでおり、困難が立ちはだかります。逆に言えば、上記のようなことをまったく意識しないなら文章を書くことなど実に簡単です。ただしそれは「他の人に情報を伝える」という役割はほとんどはたせません。それでは「仕事の文書」とは言えないわけです。
それぞれの要素については、その技術が本書でも紹介されていますし、36で紹介した『新版 考える技術・書く技術』も役に立ちます。また、これから紹介するいくつかの「書くための技術」の書籍にも有用なアドバイスが詰まっています。
が、そうした技術に触れる前に、まず今から書かれようとしている文章の目的(あるいは役割)について思いをはせておくことは大切でしょう。その答えによって、必要な「技術」もまた変わってくるのです。
▼倉下忠憲:
新しい時代に向けて「知的生産」を見つめ直す。R-style主宰。メルマガ毎週月曜配信中。