では、ここでいう「つくる」とは何をつくろうとしているのか?
それは、本当にやりたいことに使える時間をつくる、ということだと、僕は考えています。
「やりたいこと」に時間を使えていないということは、言い換えれば「それ以外のこと」に取られている、ということです。
「ムダだからやめよう」は実は意外と難しい
24時間というキャパシティが決まっている以上、「やりたいこと」に使える時間を増やすには「それ以外のこと」に使っている時間を減らしていくしかありません。
そのためには、そもそも自分が「やりたいこと」とは何なのか。それをあきらかにする必要があります。さもないと、まずもって何を減らせばいいのかがわからないからです。
- 「これはムダだからやめよう」
という判断をくだすのは、一見すると簡単そうに思えますが、「ムダ」と見なせるということは、その対極に「必要」と見なしている何かがあることになります。
この考えを押し進めていくと、最終的に以下のような境地に至るはずです。
- 「これさえやっていれば、あとはもう何も要らない」
もちろん、食事や睡眠など、生きていくうえで欠かせない時間もありますので、すべてを「これ」に投じるわけにはいきませんが、「寝食忘れて打ち込む」という言葉があるように、そういう時間すら惜しく感じられるくらいに強烈な「これ」というものがあるのも事実です。
そんな「これ」を見つけるためのヒントは「ずっとやっていたい」と思えるかどうか、ではありません。
もちろん、そう思えるに越したことはありませんが、むしろ、「続けていても苦にならない」と思えるかどうか、のほうが文字通り長く続けられるでしょう。
つまり、「ずっとやっていたい!」という、アグレッシブな方向性よりも「続けていても苦にならない」という、どちらかというと、消去法で残った選択肢のような控えめなテーマのほうが、“生存確率”が高いと思うのです。
最初はパッとしなかったけど、続けるうちにだんだん愛着が湧いてきて、今では「これをずっと続けられたら幸せ」と思えるくらいになった。
そういう風に感じられるテーマこそが、結果として「やりたいこと」になっていくのではないか、というわけです。
『仕事に必要なことはすべて映画で学べる』にいかのようなくだりがありましたが、まさにこれです。
結局のところ、僕が言っている「好きなことをやれ」という意味は、「飽きないことをやればいい」ということです。自分がいくらやっても飽きないことを見つければいいんです。才能を見つけようと思うから間違う。
僕が映画監督を続けることができた最大の理由がそれです。ほかのすべてには飽きたけど、僕は映画に関してだけは確かに飽きなかった。むしろ今は映画に飽きないさまざまな努力をしています。
それは「映画館に行かないこと」です。それも映画に飽きない努力の一つだし、今の映画を見ないということもそう。僕は自分のスタンスで映画について考え続けようと考えています。
「映画を愛している」みたいな発想は僕には全くありません。僕は「映画の正体」を知りたいと思ってやっているだけです。だからいろんな映画を試します。実写を撮ることだってそうです。映画はどういうふうにできるのか、映画の本質とは何なのか。それを知るためにいろんなことをやってみようと思っています。そのおかげで映画に飽きずに今まで続けることができました。