選択肢から、自分で選ぶことの困難さ

カテゴリー: R25世代の知的生産

ビクッと反応せざるを得ない、以下のエントリーを読みました。

「ビッグ」にはなれなくても「好きなことをして食べていく」という選択肢もある

ですが私が問題としたいのは、デートへのお誘いであれ、キャッチコピーであれ、同じなのです。つまり「驚くほどうまいパスタの店」に行きたいと思っているのはお相手であり、あなたはパスタが好きなのか?ということなのです。

「あなたはパスタが好きなのか?」

なかなかクリティカルな問いかけですが、案外無視されていることも多いものです。というか、無視した方が、ある部分ではうまくいくことが多いのでしょう。

しかし、無視することだけがただ一つの答えではないでしょうし、その問いに向き合うことは、新しい軸を持ち込むことにも繋がります。


二つのお店

たとえば、軽食を提供するお店について考えてみましょう。

片方は、マニュアルがビシっと整備された、ファストフードのチェーン店。
もう片方は、住宅街の中にある、こぢんまりとした個人のパン屋さん。

どう考えても、売り上げは前者の方が高いでしょう。すると、前者の手法が「当たり前」として流通していくかもしれません。

しかし、最大の売り上げを作れることだけが、<正しい>のでしょうか。

早朝に起き出して、パンを焼き、それをお店に並べる。時に新しいパンを開発し、時に新しい販促方法を考える。チェーンが持つ安定力は持っていないが、その代わりに裁量の幅は大きい。毎日来店してくれるお客さんがおり、会話も弾む。誰かに必要とされる感覚を持つことができる。

そういうパン屋さんだって、別に「間違い」ではないでしょう。店舗面積当たりの売り上げが最大化できなくても、細々とでも生計が成り立つならば、それも十分な選択肢となり得ます。

ここでのポイントは「選択肢」というところです。

選ぶためには、責任と基準が必要

「唯一正しい考え方」が提示された場合、それがうまく行かなければ、それを提示した人を非難すれば済みます。少なくとも、自分のアイデンティティは傷つきません。

しかし、「ファストフードのお店と、個人経営のパン屋さん。どっちにする?」と選択肢を提示されると話は変わってきます。自分自身の責任を持って、判断を下さなければいけません。判断を下すには、何かしらの基準が必要です。自分にとって、何が<正しい>のかを見極めなければいけません。

否応なしに、

「あなたはパスタが好きなのか?」

の問いに答えなければいけないということです。

この問いへの答えは、ある人にとっては自明なことであり、別の人にとっては非常な困難さを伴うものです。特に、我慢することに慣れている人ほど難しいかもしれません。それは日常生活で二の次や三の次どころではなく、倉庫の奥の方にしまわれているものです。その扉を開くのは、ちょっとした恐怖心を乗り越える必要すらあるでしょう。

簡単なことではないのです。

一時の楽の限界

というわけで、そういう問いかけは横に置いておき、美味しいパスタのお店を探すことに注力した方が「一時的」には楽です。しかし、それは短期間しか続けられないでしょう。人間のメンタルはそれほど強いものではありません。

「自分が好きでも何でもないものをネタに使ったり売り込む」を長期的に続けられる人は、「自分が好きでも何でもないものをネタに使ったり売り込む」のが好きな人です。単純に、このマネをすると挫折します。

ともあれ、

「あなたはパスタが好きなのか?」

に「はい!」と答えられるような対象を持っているのならば、これまでとは違ったルールでゲームをプレイできるようになります。

だからといって、そのゲームでの勝率が高いわけではありません。好きでやっているパン屋さんだって、ごく普通に潰れていきます。でも、そのゲームを楽しめる可能性はずいぶんと高まるでしょう。

さいごに

それに、現代では勝率を上げられる要素を手軽に__低コストで__入手することもできます。「この指とまれ」の声を、今までとは比べものにならない規模に響かせることができるのです。

常軌を逸した「好き」、つまり多大なエネルギーを存分に注ぎ込める対象ならば、それを仕事にしていくとも、まったく不可能というわけではなくなっています。

しかしながら、結局それも選択肢でしかないことは言うまでもありません。

▼今週の一冊:

佐々木俊尚さんの新刊です。

今回書いた話に、少しばかり通じるところがあるかもしれません。何かを好きという自分の「レイヤー」を活かして人とつながり、価値を生み出す。そういう生き方も、可能性の一つとして考えられるのではないか。そういう風に感じさせてくれる一冊です。

「国家」の歴史を辿りながら、現代が抱える問題を指摘し、今後の社会の在りようが提起されています。その将来像は、現代からみればかなり奇異なものに写るかもしれません。しかし、よくよく考えれば、数百年前からすれば、現代の社会だってかなり奇異に見えるでしょう。「常識」というのは、時間と共に変転していくのが、ごく自然な姿なのです。

「ウチとソト」によって明確に切り分けられた社会から、広い「場」によって多層的に構成される社会へと。この変化は、すでに個人や企業では見受けられるのでしょう。社会とその構成要素がフラクタルな関係を持っているのならば、いずれ社会にもその変化が起こることは予想できます。

もちろん、予想は予想でしかありませんが、これからの社会を生きる人は、変化しつつある現実に対して、何かしらのアクションが必要になってくるでしょう。


▼編集後記:




ノートを使った発想法について書こうと思っていましたが、佐々木さんのエントリーを読んで思わず今回の記事を書いてしまいました。前日に佐々木さんの本を読んでいた影響もあるかもしれません。ややこしいですね。


▼倉下忠憲:
新しい時代に向けて「知的生産」を見つめ直す。R-style主宰。



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