今回は084と085を。人間の思考の偏りに関する二冊です。
- 『知ってるつもり 無知の科学』(2018)
- 『THINK AGAIN』(2022)
『知ってるつもり 無知の科学』
本書は、人間がいかに「知っていないのに、知っていると勘違いしているか」を解き明かす一冊です。端的に言えば人間は「知ったかぶり」的性質を持っているわけですが、必ずしもそれは悪いことではありません。人間は、自分以外の「知識」にアクセスし、それを利用する力があるという点で他の生物には見られない性質を持っており、それにより社会的協働が可能になっています。
ともあれ、本書において重要な議論は「そもそも知識(Knowledge)とは何か?」という点です。
現代の私たちにとって、知識とは個人の内面に貯えられている利用可能な情報というイメージを抱きがちで、それはおそらく「パソコンのハードディスク」的なメタファーからやってきているのでしょうが、実際の「知識」はそのような独立的な存在ではないと本書は述べます。たとえば「この情報の詳しいことはあの本に書いてある」とか「この技術の履歴はあの人に聞けばいい」というように、知識を入手するための知識があって、私たちはその知識を実際の知識の代わり(エイリアス)として用いています。つまり、知識は外部にリンクしているのです。
それだけではありません。私たちは物の操作方法を詳細に暗記するのではなく、そのものの形状に記憶の一部を委ねます。たとえば、はさみはそれを見ればどこを持てばいいのかが瞬時にわかります。「はさみを使うときは、この場所を持つべし」という知識を暗記する必要はありません。この点でも、知識は脳以外の場所にアウトソーシングされています。
人間一人(あるいは脳一つ)を取り出したときに、その「計算力」(あるいは思考力)はそう大したものではありません。もし、無味乾燥な実験室に連れられて計測されたら驚くべきほど「愚か」な結果が出るでしょう。しかし、私たちは現実の物事に囲まれ、それらを利用して生きています。私たちの計算力(あるいは思考力)は環境に埋め込まれているのです。
だからこそ「閉じて」はいけません。私たちは、外部に心を開き、情報を外向きに発信することで、「知識」の利用が可能となります。知的生産や知的生活というと部屋に篭もって孤独に営む状態が想像されますが、それは一面的なイメージでしかありません。身体が仮にそうした状態であったとしても、意見と情報は自由闊達でなければならないのです。
『THINK AGAIN』
「Think again」は私の好きな言葉です。パラフレーズすれば「re:think」あるいは「think twice」になるでしょうか。日本語では「考えることは、考え続けることである」と言ってみたくなります。
さて、本書は「再考しつづける」ことの重要性を説く本です。なぜそれが重要なのかはいくらでも説明が挙げられます。
- 人間は直感的な思考と理性的な思考があり、後者はゆっくりとしか稼働しないから
- 人間の思考には偏りがあり、理性的に考えてすら盲点があるから
- 知識や事実は常にアップデートされており、それによって思考の前提が変化するから
総合的に言えば、ある時点で「こうだ」と確信したことでも──その確信がどれほど強いものだったとしても──それが確かではない可能性が常につきまっているから、「再考しつづける」ことが必要なのです。これは「誤謬性を受け入れる」と表現してもいいでしょう。
思考の道筋が論理的でないことはいくらでもありますし、論理的であっても情報が欠落していてスタートとなる前提が間違っている可能性もあります。つまり「考え」さえすればそれでOKとは言えません。この点で「自分の頭で考える」というメッセージが不十分であることがわかります。真に必要なのは「自分の頭で考え続ける」ことです。自分の頭で安易な結論を「考え」出し、それに安住しているならば、何も考えていないのとほとんど代わりがありません。陰謀論とそれ以外を分ける差はその「思考の継続性」にあるとも言えるでしょう。
人間の瞬間的な思考は偏りがあるし、ゆっくり考えたとしても完全とは言えない。
だから私たちは「考える」だけでなく「考え続ける」ことが必要となります。また、知識が当人以外に広がっている話を合わせて考えれば、その知的な営みにおいて「他者」の存在も欠かせません。この二つが、誠実な知的生産においては必須と言えるでしょう。
▼倉下忠憲:
新しい時代に向けて「知的生産」を見つめ直す。R-style主宰。メルマガ毎週月曜配信中。