『知の編集工学』
情報に対するさまざまな知的処理を総合して「編集」と呼ぶ本書では、そのための手法と考え方がまとめられています。特に六十四の編集技法は圧巻で、技法好きの人間にとってはたまりません。それだけで上下巻の本になりそうな勢いがあります。
しかし、そうした技法を振るうまえに押さえておきたいのが、私たちと情報の関係です。あるいは、その二つをつなぐ「考え」という行為の内実です。
まず私たちは注意を向けます。そうすると対象が浮かび上がってきます。地から図が浮き出るのです。まず対象があって、それに注意を向けるという言い方もできますし、それも間違いではないですが、私が注意を向けるときに、イメージ(予想・シミュレーション)が先行し、それに合うように対象が浮かび上がってくる、という側面もあるわけです。
この注意はたいていの人間にとって限定的です。いわゆるマルチタスクは起きません。一つに注意を向けているときは、別の図は浮かび上がらないようになっています(ルビンの壺などが好例でしょう)。
よって、その注意は移り変わります。ある対象(≒状態)から別の対象(=対象)へと移り変わっていくのです。その移り変わり先は物理的に近いもの(トーストからホットコーヒーのカップ)もあれば、概念的に近いもの(トーストからピーナツバターそしてSPY×FAMILY)もあります。
私たちの脳の中では、そうした概念的に近いものがリンクされています。というか、そういうリンク発生の強さが「概念的近さ」と表現できると言い換えてもいいでしょう。そのようなリンク構造を著者は、〈意味単位のネットワーク〉と呼んでいます。このネットワークは一層的ではなく、多層的かつ立体的であり、非常に複雑な構造になっています。
その複雑なネットワークを一つひとつ辿っていくことが「考える」という行為なのだと著者は述べます。もちろん、その構造は複雑なのであり、辿り方は一つではありません。また、全体を見通せないうちは進んでみたけど「あれ、これちょっと違うな」と後戻りすることも多いでしょう。まっすぐには進めないわけです。
このジグザグした進行が、「考える」ということの正体なのだ。それが〈ハイパーリンク状態〉である。思想とは、畢竟、そのジグザグした進行の航跡のことにほかならない。
非常に大切なポイントです。
一度通ったルートならば、私たちはまっすぐに進むことができるでしょう。全体を見通せているからです。そこにはジグザグの進行はないわけです。畢竟、それは思想とは呼べません。私の言い方をすれば、「考える」よりは「思う」に近いと言えるでしょう。
「考える」にはジグザグの進行が必要で、王道はない。
これは何度も肝に銘じておきたいことです。
『知的複眼思考法』
冒頭から厳しい指摘が入ります。
「自分で考えろ」というのはやさしい。「自分で考える力を身につけよう」というだけなら、誰にでもいえる。そういって考える力がつくと思っている人々は、どれだけ考える力を持っているのか。考えるとはどういうことかを知っているのか。本を読みさえすれば、考えることにつながるわけでもない。自分で何かを調べさえすれば、考える力が育つわけでもない。ディスカッションやディベートの機会を作れば、自分の考えを伝えられるようになるわけでもない。
知的能力の向上において練習や訓練が欠かせないとしても、ただ本を読みさえすれば、ただ文章を書きさえすれば、それだけで達成できるわけではないでしょう。その「方法」が大切になってきます。実際、スポーツの世界でもトレーニング方法の改善によって年々平均的な記録が向上している傾向もあります。「方法」が重要なのです。
よって本書では、そのための具体的な方法を紹介します。その主要なコンセプトが「複眼思考」です。
「複眼思考」に対置されるのが「単眼思考」で、こちらは「常識」にどっぷり浸かったものの見かた・考えかたが意味されます。言い換えれば、すでに他の人が考えたことをただなぞっているだけの思考と言えるでしょう。
一方で複眼思考は「複数の視点を自由に行き来することで、ひとつの視点にとらわれない相対化の思考法」とされています。言い換えれば、これまでに考えられたことのない考えを生み出すための方法です。「その事態を自分自身とのかかわりの中でとらえ直す複数の視点を持つこと」とも表現されています。
前述した〈意味単位のネットワーク〉の話と呼応させるならば、「単眼思考」とは自分が見聞きした「他の人が辿ったルート」をもう一度辿ることです。当然そこにはジグザグは含まれていません。むしろ、発表されたルート(つまり公開された文章)においてはジグザグの枝葉はばっさりと切り落とされ、きわめてまっすぐな道として表現されています。文章を書いた人は、もしかしたらジグザグを辿ったのかもしれませんが、そのジグザグを整えられたルートを受け取り、ただそれをなぞるだけならば、そこには「考え」は(少なくとも「自分の考え」は)含まれていないのです。
しかし、もし「複数の視点を自由に行き来すること」ができるならば、それは複雑な構造の〈意味単位のネットワーク〉が認識されていることを意味します。当然それは、自分が持っている〈意味単位のネットワーク〉であり、他の人のそれとは形が異なっています。さらに、そのルートのジグザグの探索また、その人独自のものとなるでしょう。つまり、他の人が辿ったことがないルートを歩く、ということです。それこそまさに「考える」という行為でしょう。
よって、大切なことは二つあります。一つは、自分の〈意味単位のネットワーク〉を認識し、それを開拓してくこと。これは、075で紹介した『学びとは何か』の「自分の知識ネットワーク」づくりの話と相通じます。
また、もう一つの大切なことは、そうしたネットワークの辿り方のバリエーションを増やすことです。この部分の方法がいわゆる「思考法」と呼ばれるものですが、そればかり鍛えても、「自分の知識ネットワーク」が貧弱ならば辿れるルートは限られてしまうでしょう。
この二つをそれぞれ育てていくこと(あるいは鍛えていくこと)が「考える」という行為を上達させるためには必要になります。
▼倉下忠憲:
新しい時代に向けて「知的生産」を見つめ直す。R-style主宰。メルマガ毎週月曜配信中。