- 『正しい本の読み方』(2017)
- 『多読術』(2009)
『正しい本の読み方』(橋爪大三郎)
私のようにあまのじゃくな人間にしてみれば「正しい本の読み方とは何だ! 読書とは自由な行為ではないのか! 本の読み方に正しいも間違っているもない!」みたいな反感が呼び起こされるタイトルですが、それはさておきまっとうな読書法が語られています。
人間はいつでも「できかけ」の状態として開かれている。本を読み、何かを学ぶことは、そうした自分を変化させていくことであり、また自分を捉える行為でもある。だから積極的に本を読んでいこう。読むべき本は、教科書、古典、入門書である。また、本はネットワークを形成しているので、リンクを辿っていろいろ読んでいくべし。
至極まっとうでしょう。頷くところしかありません。一方で、「あまのじゃくを忘れない」という節にはこんな指摘もあります。
すべての本は、間違っている可能性がある。
そう思わなければだめ。なぜか。
あるひとが書いたものだから。あるひとの考えだから、です。
この文章を素直に読めば、本書もまた間違っている可能性があることになります。少なくとも、そう思いながら読まなければならないとは言えます。つまり、私のようなあまのじゃくの反論はすでに織り込み済みなわけです。本書は「正しい本の読み方」と言っているけれども、本当に「正しい」かどうかはわからない。そういう風に本を読めと教えてくれているのです。
別の場所にはこんな文章もあります。
すなおに読む。ともかく、素直に読む。
読み方の、基本です。
とすれば、先ほどの私の「素直な読み」もまったく正しいことになるでしょう。
『多読術』(松岡正剛)
本書は松岡正剛さんの本の読み方を探るもので、(理念的ではなく)実践的な内容になっています。
タイトルは「多読術」ですが、安直に多読を勧めるものではありません。多読と少読がつながっていたり、精読ではない狭読が可能性を持っていたり、とさまざまな本の読み方が提示されています。「読書っていろいろな方法によって成立しうるんですね」という松岡さんの言葉が象徴的です。
大切な話はいろいろあるのですが、面白いのが以下の部分。
(前略)まず言っておきたいことは、「読書はたいへんな行為だ」とか「崇高な営みだ」などと思いすぎないことです。それよりも、まずは日々の生活でやっていることのように、カジュアルなものだと捉えたほうがいい。たとえていえば、読書は何かを着ることに似ています。読書はファッションだと言ってもいいくらいだけど、もっとわかりやすくいえば、日々の着るものに近い。
読書術の本を読んでいると「読書のたとえ」はいろいろ出てくるのですが(一番多いのは「食事」です)、「日々の着るもの」はかなり稀と言えるでしょう。このたとえは、一瞬意外に感じますが、考えてみれば「なるほど」と思える部分も出てきます。
食事はあるタイミングで終了しますが、読書は一定期間継続的に行われます。その間中ずっとその本に付き添っている(≒本に付き添われている)状態なわけです。たしかにそれは「着る」という行為に似ているかもしれません。複数の衣類を「着合わせる」点も、並行して進める読書に似ています。
とは言え、食事にせよ日々の着るものにせよ、それが飾り立てた特別な行為ではなく、むしろ日常の営為に位置づけられる点は共通しているでしょう。そのようにカジュアルに捉えるからこそ、本と気負いなく付き合っていけるようになる(権威主義と距離を置ける)のだと思います。
ちなみに本書でも本のネットワーク性について触れられています。何かしらの中心となる本(「キーブック」と呼ばれています)を捉えることで、本(books)の関係性ができあがっていく。あるいは、何かしらの関係性を見立てるときに、多重の結節点に位置してくる本が見出される。そんな感覚で本の全体を捉まえられるようになると、読書の面白みはさらに増してくるのでしょう。
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現状複数のプロジェクトを並行して進められてはいるのですが、「ギリギリ」という感じが否めません。ちょっと針でつつかれたらパンっと破裂してしまいそうな予感があります。もう少しだけペースをダウンさせるのが良さそうです。
▼倉下忠憲:
新しい時代に向けて「知的生産」を見つめ直す。R-style主宰。メルマガ毎週月曜配信中。