佐藤本人によれば港東ムース時代にオーナーだった野村沙知代から「シャキッとしなさい。ジジイじゃないんだから」と叱られたのがきっかけだったと云う。
しかし中でも有名なのはどうしても北京オリンピックのエラーになってしまうでしょう。
声をあげてグラブを構えたときから、まわりがスローモーションになりました。
ボールがパッ、パッ、パッと、ひとコマずつ落ちてきます。僕も、ひとコマごとに落下点に足を進めていました。
「あ、捕れない……」
グローブをかすめてボールが落ちた瞬間、大砲の弾が爆発したような大きな音がした気がしました。
「ズドーン!」
そこから後はほとんど記憶がありません。その日の夜、「死にたい」と、ひと言だけ書いたメールを妻の真由子に送ったそうです。
重さが伝わってくるような描写です。
言うまでもなくG.G.さんは激しい批判にさらされました。
とはいえ実際のところG.G.さんはこれで死んでしまったわけでもつぶれてしまったわけでもありません。
私たちの「批判精神」とはどうしてこんなにもエネルギッシュなのか?
「GGは北京オリンピックのエラーでボロボロになって、西武をクビになり、野球人生が終わった」と思われているようですが、本当は違います。
2009年のシーズン、僕は自己最高の成績を残しています。ホームラン25本は結婚のために必死だった2年前と同じ。打率2割9分1厘は全試合出場したシーズンでは最高の数字です。
G.G.さんの「その後」をこのように思い込んでいた人は数多くいたようで、しかも佐藤さん自身がそれを知っていたような書き方です。
「GGは北京オリンピックのエラーでボロボロになって、西武をクビになり、野球人生が終わった」
と、多くの人に、思い込まれていたのでしょう。
確かにそう思われても不思議のないほどの「事件」でした。
けれどもこんな思い込みはすぐに事実でないと確認できたはずです。
エラーでボロボロになったのはとりあえず事実だとしても、それですぐに西武をクビになったわけではなく、まして野球人生は終わりませんでした。
結果、チームは金メダルはおろか銅メダルも獲れず、帰国したら大バッシング。本当に死にたいと思ったし、消えてなくなりたいとも思いました。本気で僕に対して消えてなくなれと思ったプロ野球ファンもいっぱいいたんじゃないかと思います。
だけど、現実は、そうは行きません。家族がいる、生活がある。死ぬわけにもいかないし、野球をやるしかない。だから、バッシングされても、がんばるしかなかったんです。
それにしても私たちの「批判精神」とはどうしてこんなにもエネルギッシュなのでしょうか?
このような人を「バッシング」したその結果、私たちはなにを得ようというのでしょう?
本気でG.G.が「消えてなくなった」ら、批判した人になにかいいことでもあるのでしょうか?
人のことを許さないと、自分がなにをするのも許されなくなる恐怖
G.G.をボロボロにして、西武をクビにして、人生を終わらせてやったら「スッキリする」ということでしょうか?
よく考えてみると「批判する」ことで批判者が得られる最大の成果とは、ほとんどの場合「スッキリする」ことくらいしか考えつきません。
しかもこの「スッキリ!」にはけっこう高いコストがかかるような気がします。
スッキリした批判者は今後、同じ基準による自罰と自責を引き受けねばならなくなるはずです。
衆人注視のもと「落球したG.G.など、消えてなくなればいいのに!」と考えた人は、同程度のミスをしたときには、自分が消えてなくならなければならないのです。
「いいや! G.G.は消えてなくなる必要があるが、自分の場合には、オリンピックで落球するほどのでかいミスを犯しても、少しも責められるいわれなんかないぞ!」と自分ひとりを説得しきるのすら、意外と難しいものです。
だからこそ、郵便局の窓口でモタモタしている人にイライラしがちな人は、自分が窓口に立つと「後ろの視線」が気になるわけですし、会社の「窓際族なんかクビにすればいい!」と思ってしまう人は、自分が風邪をひいて休むと不安をおぼえるものなのです。
このミスが追加点につながってしまったので、ベンチに戻るのが本当に嫌でした。
「お前、なんてことをやってくれたんだ」みんなの顔にそう書いてあるような錯覚に、自分で勝手に陥ってしまいました。
G.G.さんは北京での強烈な体験を通じて、人のことを許さないと、自分がなにをするのも許されなくなる恐怖を実感したのでしょう。
あれから13年が経ちました。笑いのネタにすることはあるけど、それでも完全に立ち直ってなんかないし、立ち直ることは今後もきっとない。でも、あの経験があったからこそ、「自分を許す」こと、「失敗した人を許すこと」を心がけるようになったと思います。
このように「失敗を許す」という原則をもつことはそう難しくはありません。
でもそれを具体的に実行するのは、おそらく相当に難しいことです。
「許す」のが「正しい」かどうかはわからないものですし、多くの人から「そいつだけは許すべきじゃない」と言われるような状況では、ふつうの人なら不安になります。
なぜ「許す」のか?
2021年11月4日。
千葉ロッテマリーンズを退団した清田育宏という選手が、ロッテを相手どり、19ヶ月分の報酬と、契約解除を無効にし、1,100万円の慰謝料を求める裁判を起こしていると報道されました。
私はロッテ・オリオンズ時代からずっと、永らく千葉ロッテ・マリーンズを応援してきた人間です。
コロナ禍の不倫報道から、退団、クライマックスシリーズの最中での裁判沙汰と、清田さんはまるでバッシングを受けるために行動しているように見えたものです。
絵に描いたような「多くの人からそいつだけは許すべきじゃないと言われるような状況」でした。
しかしG.G.さんは、信じられないほどすばやく清田さんのサポートを「宣言」しました。
そして予想どおりに炎上し、非難の嵐を呼びました。
清田に会社の球場を貸したり練習相手になったりすることで、僕自身や会社のイメージが悪くなるんじゃないか、ロッテ球団との関係が悪くなるんじゃないかと心配する方もたくさんいます。そういうことを考えて、「縁を切れ」ということになるのでしょう。
確かに、損得で考えれば、清田のサポートをすることは損もあると思います。
では、それを承知でなぜ僕が清田を助けるのか。それは、僕自身が2008年の北京五輪で重大な失敗をした経験があるからに他なりません。
先ほど書いたとおり「批判」には「基準」がつきものです。
人を批判してしまえば自分はその基準をインストールする結果になり、自分がなにかをしでかしたとき、同じ基準に沿って自分を罰しなければならなくなります。
つまりこの種の「基準」は「普遍的」であると自分自身はみなすため、自分であれ他人であれ、ろくでもない結果を招いたならば「この普遍的な基準」にもとづいて「厳罰に処されなければならない」と感じます。
それができれば「スッキリ」するということは、逆にいえば、そうできないときは猛烈な怒りをため込んで悶絶しなければなりません。
具体的な行動をいっさい起こさなくても、それどころかTwitterに書き込む程度のことすらせずとも、
- コイツに天罰が下ったらいいのに!
といつの間にか「念じている」といったことは生きていればいくらでも遭遇します。
そしてまるでその「念力」が通じたかのように、総理が退陣に追い込まれたり、五輪の会長の首がすげ替えられたりすれば、「念が通じた!」と感じて「スッキリ!」することがあるのです。
「正義は勝つ! 天罰テキメン!」といった感情が圧倒するのです。
逆に、この感情が私の中で津波のように押し寄せてきたにもかかわらず、
- なぜか念が通じない!
- なぜか正義が通らない!
- なぜかワルモノに天罰が下らない!
となったとき、その怒りを私が制御しなければならなくなります。巨大な怒りの津波の「防波堤」に自分がならなければならなくなる。
会社の上司をリンチにかけたいとき、一緒に暮らす配偶者を怒鳴りまくって抑うつ症にしてやりたいとき、実家の親に正義の鉄槌を喰らわせてやりたいとき、実際にはそうするわけには行かないとなると、強烈な自分の怒りのやり場がなくなってしまうのです。
そうしてため込んだ怒りのマグマが胃腸を攻撃し、消化不良を引き起こし、睡眠不足に誘い、いつか抑うつ症にすらつながりかねないと、私自身の経験からも思います。
G.G.佐藤さんはだから「許す」のでしょう。それは他人のためにも自分のためにもなると知っているからですし、逆をやっても誰のためにもならないことを痛感したからです。