この間私が挑戦を続けてきて、いまだに課題であるのが、
- 何かしらの失敗、ヘマをやらかしてしまって、そのおかげで誰かがイライラしていると想像してしまった場合の、ややいたたまれない気持ち
です。
私は人に怒られることを恐れてきました。
それがようやくおさまりつつあります。
この程度のことができるのに間もなく50歳になろうというのはあまり褒められた話ではないかもしれません。
ここ2年、私がまず徹底的に心がけてきたことがあります。
それは、
- いい人もいれば、悪い人もいる
という考え方を徹底してしりぞけ
- この世にはいい人しかいない!
と「決めた」のです。
いましがた書いたとおり要するに私は「小心者」ですから、どちらかといえば、
- この世には厳しめ、もしくは性悪しかいない!
と信じて生きているようなところがありました。
「渡る世間は鬼ばかり」というわけです。
それを逆転させようというのだからたいへんにムリがあります。
が、
そもそもこの世に「悪人や意地悪が多い」と想定しておいたところでたいしたメリットはないように思ったのです。
もちろんこの発想の転換の裏には倉園佳三さんの「グッドバイブス」からの影響が多大にあります。
けれど「影響」だけで自分の信念を反転させられるものではありません。
「検証」が必要です。
この世にはいい人しかいない?
2年間、無理をしてでも「世の中みんないい人説」で押し通してみて、どのような致命的なダメージを受けるかを待ち構えていたのです。
致命的なダメージを受けたら、そこでやめてもいいでしょう。
いまのところ大したことはなに起こっていません。
まだ短い期間ですがここまでなら「世の中みんないい人」と仮定しても良さそうです。
少なくともこれはラクな生き方です。
どうして楽になれたかといえば、
- いい人にキツいことを言われた
- 意地悪な人に攻撃された
このふたつは違うからです。
もちろん「ものの見方」にすぎないのですが、どちらの見方を採用するかは私の勝手です。
実際問題として「私は意地の悪い人に攻撃されてばかりいるのです!」という人に向かって私が、
- 「いいえ! その意地悪な人は、実はいい人なんですよ!」
などといっても受け入れてもらえないでしょう。
逆でも同じだと思うのです。
私が「とてもいい人になんですが、ちょっとキツいことを言われたんです」と思っているところへ、
- 「イヤ! そいつは生まれたときから悪の化身のようなとんでもないサイコパスなんですよ!」
と言われてもそれを信じる義務はないはずです。
ですが私はずっと、
- 意地悪な人に攻撃された
説で生きてきました。
なぜならそのほうが「安心に思えた」からです。
「いい人にキツいことを言われた」と考えるのにはどういうわけか「蛮勇」が必要に思えるのです。
これは今でも変わりません。
でも敢えてその「蛮勇」を奮い立たせてみると「問題」は消えていくのです。
なぜなら「いい人」が少々虫の居所が悪くて「キツいこと」を言ってきたとしても、相手は「いい人」なのだからゆるしてくれるでしょうし、こちらも「いい人」とわざわざがんばって闘ったりしなくてすむからです。
(「勇気」を要するのはこのへんでしょう。「ゆるしてくれた」などというのは「甘い考え」であって、実は怒り狂っているかもしれないからです。でも「相手は決してそう「いい人」ではないからまだ怒っている!」と考えておくほうが「賢明で安心」というのは、よく考えてみるとそれほど合理的とは思えません)。
「世の中みんないい人説」で生きるかぎり、私はいくらやらかしてもヘマをして失敗しても皆ゆるしてくれるわけですから、その逆であるよりはるかにラクに生きられることになります。
2年経ってみて明らかになってきたのは、少なくとも「現実」に、今の方がずっと楽に生きていられているということです。