そういったことが起きたら渋々であっても必ず
- 14:40〜15:12 連載原稿を書こうとしてウトウトしていた
とタスクを実行しようとし、違う行為を実行したと自分に示してあげなければいけません。
これはストイシズムでもなければリアリズムでもなく、ただただ「タスクシュート」であると理解しましょう。
何度となくこういったことが発生するとき私たちタスクシュートユーザーは、
- タスクシュート
にぶち当たります。
この経験がとても大事です。
タスクシュート以外に、このような経験をさせるツールも仕事術も皆無です。
タスクシュートは常に「見て」いる
ほぼすべての仕事術は
- □連載原稿
とあったら、連載原稿を書くことが「良いことだ」とみなし、それに向かって私たちを邁進させようとします。
仕事をすべきなのだから、タスク管理もそれを後押しすべきだというわけです。
けれどタスクシュートは違います。
この瞬間にあることをしようとして、ギリギリまでそれをやろうとしてもできず、他のことを実行したら、それを行為した事実だけをただ見出すのです。
タスクシュートという(よくある言葉を使うなら)「仕組み」が、このような私たちのあり方を「囲い込んでしまう」のです。
タスクシュートを止めないかぎり、この外側に出ることは原理的に不可能です。
私の全行動は記述されます。
やろうとした以外のことはできても、タスクシュートせずにいることはできません。
なにをしても、なにをしなくても、タスクシュートは「見て」います。
ウトウトしたりせず、原稿を書くべきだといった「べき論」に逃げることをタスクシュートはゆるしません。
私たちはただ「現実」に縛りつけられます。
原稿を書こうとして書けないという現実に縛りつけられるのです。
- 原稿を書こうとしてウトウトする
という行為を為してしまう自分からは逃げられません。
原稿を書こうという気持ちになると、原稿を書くという行動をとることができず、睡眠に誘われるという「私」が徹底的に意識されます。
するとそんな「私」が以前にも存在していたことに気づくかもしれません。
学生時代に意中の異性に「自己表現」しようとしてできず、モジモジしているうちに自室でウトウトするばかりだった「自分の引っ込み思案」に縛られていたような自分を思い出すのです。
意中の異性に気持ち悪がられたり嘲笑されたりする怖さのようなものは、原稿を暗に否定されたりアクセスが得られず「モテないやつ」とレッテルを貼られる怖さによく似ていたりもするのです。
書こうとしてネタがなくて書けないのではなく、書こうとして野球中継が気になって書けないのでもなく、書こうとするとモジモジしてウトウトする「私」。
タスクシュートはそんな「私」を繰り返し私に向かって指摘し返してきます。
それを何度も発見するうちに「私」が異なる突破口を見出すことがあります。
それが「タスクシュート」のおかげで仕事が急激に進む瞬間に起きる出来事なのです。