二年ぶりの発行です。
目次は以下の通り。
■for study
・勉強ノート試論(Go Fujita)
・勉強ならざる勉強ノートをなぜ書くのか(倉下忠憲)
・授業ノートの取り方(いっき)
・アウトライナーフリーク的ノートテイキング(Tak.)■system
・着想メモは、一度手ばなす(choiyaki)
・音と茸と孤独な絵画(Hibiki Kurosawa)
・メモとノートとタスクの統合ツール(Tak.)
・職場のメモと家庭のノート(いっき)
・読書ノートでパーソナル・データベースをつくる(Go Fujita)■デジタルノートのディストピア(倉下忠憲)
■medium
・電子と紙 ~デバイスを開く、メディアを開く~(いっき)
・コピー用紙よ永遠なれ(倉下忠憲)
・書き心地わがまま(choiyaki)■format
・私たちは、なぜメモやノートを使うのだろう ~ノートでできる7つのこと~(いっき)
・ノートは「勝手に見返しちゃうもの」に(choiyaki)
・あのメモは不可能なんだ(Hibiki Kurosawa)
執筆者それぞれが、「ノート」について語っております。拙著新刊では意図的に具体的なノートツールの話はしませんでしたが、こちらではむしろ具体的な話がわんさか出てきております。その意味で、拙著とは違った楽しみ方ができるかと思います。
加えて、一つの大きな試論として「デジタルノートのディストピア」という原稿も掲載しました。ある意味で、この「デジタルノートテイキング」連載を始めようと思った発端を綴った論考だとも言えます。
デジタルノートのディストピアとは?
ごく簡単に言えば、次のようなことです。
私たち知的生産者は(あるいはそれに憧れを抱く人間は)、記録すること、ノートをとることの重要性を理解していた。だから、非常に手間を掛けて記録を残していた。そして、パーソナルなコンピュータが福音のように登場した。それらのツールは私たちが手軽に記録を残すことをエンハンスしてくれた。そこから薔薇色のような10年間がスタートした。大量の情報を手軽に記録できるようになった。そして10年が経ち、私たちの手には一体何が残っただろうか。
この原稿で書いた話は、特定のツールの話ではありません。私たちがツールを通して情報とどう付き合うのか、という話です。逆に言えば、私たちはそのことを──つまり、デジタルツールをどう知的生産に使っていけばいいのかを──ぜんぜんわかっていなかったことが、確認されたのがこの10年の歩みだったのだと感じています。
なにせそんなツールが日常的に使えるようになったのは、ほんとうにここ10年〜15年くらいの話なのです。ノウハウなど確立されるはずがありません。むしろ、ここ10年で経験したことを踏まえて、ようやくノウハウらしきものを固めていける段階に入ったのかな、というくらいです。
そして、ノウハウとツールが呼応するように、デジタル・ノート・ツールも、自身がどんな機能を提供すればいいのかという方向性をまだ十分には固められていないでしょう。どうしても、アナログツールのメタファーがデジタルツールでも使われているように思います。それはそれで一つの選択肢ですが、それ以外の選択肢もあるはずです。
単に「便利」なツールではなく、人間が行う「知的処理」をサポートしていけるようなツール。そうしたツールは、道具と知的処理の関係を理解した上でないと構築できないでしょう。
だから一度、私たちの十年の歩みを振り返っておく必要があると考えました。それを書いたのが「デジタルノートのディストピア」です。
その他
上記のような「大きな話」以外にも、『かーそる 2021年7月号』ではさまざまな「ノート」の話が出てきます。もちろん、アナログのノート帳に限ったものではなく、アウトライナーのようなデジタルツールの話も含まれています。そういう自由さこそが、ノートのノートたる所以である、という話は拙著にも書きました。
ぜひとも、皆様も各自のノートライフをenjoyしてください。『かーそる 2021年7月号』はそれを盛り上げてくれると思います。
これまでの「かーそる」
▼倉下忠憲:
新しい時代に向けて「知的生産」を見つめ直す。R-style主宰。メルマガ毎週月曜配信中。