私たちが着想をアイデアとして発展的に扱うためには、それを走り書きのメモではなく、ある程度しっかりとした文章(豆論文)にしておく必要があります。
しかし、しっかりした文章を書くのは時間がかかり、さらには認知資源もかかります。つまり、疲れます。この二つの理由から「思いついたら、即座に着想を豆論文として書き下ろす」ことは、現実的には困難と言えます(毎日すごい暇な人は除きます)。
では、どうすればいいのでしょうか。ポイントは、半分ずつの歩み寄りです。
部分的に処理していく
まず現実的にいって、すべての着想の豆論文化はできないと諦めましょう。それができることを理想としつつ、現実は「ある程度、豆論文化できたら良い」という指針でいきます。あなたが学者や作家でないならば、それで特に問題ないはずです。
そうすると、ある着想は豆論文化され、別の着想は走り書きメモとして書き留められます。この不平等な扱いを受け入れるのが最初の一歩です。自分の「システム」を構築しようとしていると、なぜかこうした不平等な扱いはあってはならないような感覚を覚えるのですが(支配欲の表れかもしれません)、時間や認知資源の制約からいって、すべてを平等に(あるいは均等に)扱うことは無理なのです。むしろ、扱いに差を生まないようにするならば、「何も扱わない」しか答えがありません。それは望ましい結果ではないでしょう。
着想全体をすべて豆論文化していくのではなく、ある部分だけを豆論文化することを肯定する。これが一つ目のポイントです。
タスク化しない
その際に、陥りがちなのが、タスク化のトラップです。これは、「情報処理の作法」を身につけている人ほど踏みやすいトラップです。しかも、ほとんどの場合無意識にそれを踏み、ドバーンと爆発してしまいます。
では、タスク化のトラップとは何でしょうか。
たとえば、着想Aがあり着想Bがあり着想Cがあったとしましょう。それらを書き留めて「置く」とします。
- 着想A
- 着想B
- 着想C
これらは、上記のシステム上の処理から見れば「まだ豆論文化できていないもの」です。そこからメトニミー的に(つまり隣接性によって)「豆論文化すべきもの」に転じるとき、タスク化のトラップが炸裂します。
なぜでしょうか。「まだ豆論文化できていないもの」を「豆論文化すべきもの」として扱うことには、なんら論理的誤謬はないように思われます。むしろ、そのように扱うことが正当であり、必要であるようにすら感じられるでしょう(私はそう感じていました)。
でも、考えてみてください。着想から始まる知的な活動は、「知の営み」とでも表現できる継続的な活動と呼べます。言い換えれば、終わりのないプロジェクトなのです。
もしこれが終わりのあるプロジェクトであれば、以下の「タスクリスト」を作り、
- 着想A
- 着想B
- 着想C
それをなんとか消化すればハッピーエンドでしょう。しかし、オープンエンドな私たちの脳は(あるいはそこで行われる知の営み)は、そうした消化をしている間に、新しい着想を次々と発生させていきます。そして、期間Xで発生する着想n個は、期間Xにおいてすべて豆論文化できないのでした。この前提は、あなたがスーパーインテリジェンサーとして突然覚醒しない限り変わることはありません。
調子に乗って数学的な表現を続けると、期間Xで処理できる着想の数をmとしたら、n > m が成り立ち、期間Xにおいて n – m 個の「やり残し」が必ず生まれることを意味します。
つまり、スナップショットで見た以下の「タスクリスト」は、いかにも御しやすい存在に思えますが、
- 着想A
- 着想B
- 着想C
RPGゲームなどに出てくるモンスターのようにこいつらは常に「仲間を呼ぶ」能力を発揮しており、一つやっつけるたびに、新しい「タスク」を増やしていくのです(ゾンビと感染のメタファーを用いても良いでしょう)。ようは、上のリストは「見せかけ」でしかありません。その背後には、ぞろぞろとタスク予備軍が眠っているのです。
総じて言えば、着想メモの豆論文化を「タスク」にしてしまった時点で、敗北が決定しているゲームに参加することになります。これは、精神的にかなり「くる」ものがあるので、極力回避しておきましょう。
タスク化しなければ、豆論文化されないものが生まれるわけですが、そもそも原理的に、何をどうやっても「未達なもの」は生まれてしまうので(友人を殺された怒りでスーパーインテリジェンサーに目覚めるなら話は別ですが)、そこはしゃーないと諦めておきましょう。これが歩み寄りの半分です。
単語で終わらせない
もう半分は、そうはいっても書き方も重要だよね、という話ですつまり、ある程度は豆論文化できないものが出てくるのは仕方がないにしても、可能な限り豆論文化しやすい形で走り書きメモを残しておこう、という指針を持つわけです。
たとえば、以下はすべて同じ着想についてのメモです。
上から四つはフレーズになっていて、最後の一つは文章です。この最後の一つは「豆論文」のように思われるかもしれませんが、よく読むと二つの要素が入っているので豆論文としては成立していません。書き足りないのではなく、書き過ぎていて豆論文ではないのです。
さて、このどれもが私が何かを思いついたときのメモとしては機能しますが、さすがに上二つはアウトでしょう。メモを書いた直後にリライトするのでなければ、対象が広過ぎて含意を特定できません。
「メタファーとイマジネーション」だと少しマシですが、それでもまた対象が広く、この二つの言葉の関係性が見えてきません。
三つ目の「メタファーはその人のイマジネーションを駆動する」は、走り書きメモとしてはちょうどよい按配です。着想を思いついた私が何をイメージしていたのかが、それを読み返した私にもイメージしやすくなっています。
贅沢を言えば、四つ目の記述までをしておいて、後からそれを加工して二つの豆論文を書き起こすのが理想ですが、もちろん理想は現実ではありません。三つ目くらいのレベルで手を打つ、というのがもう半分の歩み寄りです。
さいごに
今回書いたことには、きわめて大切な話が含まれています。着想を「タスク管理の手法」でそのまま処理しようとすると、破綻(というよりもゲーム的敗北)が待っているのです。特に、 n > m が維持されているならば、その敗北は必定です。
着想を豆論文化することを心がけるにしても、それを「タスク」にはしないようにすること。それが長期的に継続される知の営みにおいて必要な姿勢となります。
では、タスクにせずに、どうやって処理を進めるのか。それについてはまた次回。
▼倉下忠憲:
新しい時代に向けて「知的生産」を見つめ直す。R-style主宰。メルマガ毎週月曜配信中。