今回は第3部「どのように学べばよいかを知ろう」の後半です。
記憶と学びの技法
第3部の第13章から第15章には、以下の技法が紹介されています。
- 技法47 記憶法マッチング
- 技法48 PQRST法
- 技法49 プレマップ&ポストマップ
- 技法50 記憶術(ニーモニクス)
- 技法51 35ミニッツ・モジュール
- 技法52 シンクアラウド(Think Aloud)
- 技法53 わからないルートマップ
- 技法54 違う解き方
- 技法55 メタノート
以上55の技法で、本書の「技法紹介」はひとまず終了です。
最後を飾るだけあって、極めて重要な指摘がいくつも含まれています。
記憶の位置づけ
「勉強法」と聞くと、「暗記」がイメージされ、「いやでも、このWeb時代に暗記って意味ないでしょ」という反論が思い浮かびます。
しかし、何かを覚えることが無意味になったわけではありません。というか、私たちが深いレベルで「使える」情報は、すべて頭に刻み込まれた情報だけだ、ということを考えれば何かを覚えることの重要性は下がっていないどころか、むしろ向上しているとすら言えるかもしれません。
特に、AIが知的労働を行うことが可能になり、人間は創造することが仕事となる、という言説を受け入れるならば、なおさらです。
散歩しながらアイデアをひらめくとき、その情報の融合は必ず脳内にある情報だけで発生します。調べないと知らないこと、わからないことはアイデアの素材にはならないのです。
この一点だけを考えても、何かを頭に刻むことの重要性がわかります。
さらに本書の次の指摘も重要です。
昨今は、記憶の術(アート)よりもマネジメントを重視する。(中略)弁論の原稿のように、ある時に(この場合だと弁論の前に)膨大な情報を覚えろというより、俺たちはいろんな種類の情報を次々に覚え続けることが求められる。つまりスケジュールも含めた長期間のマネジメントが必要かつ重要になるわけだ。
たとえば、円周率を1万桁まで暗記したらそれで生涯食べていけるなら、「一気型」の記憶術が役立つでしょうが、現代を眺めてみるとどうやらそういう事情ではなさそうです。
次々に新しい情報が登場し、ときに古い情報を刷新してしまう。そのような状況では、単に何かを覚えるだけでなく、不要になったものは忘れていくこともまた必要です。だからこそ、「記憶術」ではなく、「記憶のマネジメント」が大切なのです。
つまり、覚えることは大切だが、覚えればいいというわけではない、ということです。そしてまた、学習は継続してナンボ、ということもここから明らかになります。
わからないの形
そして、何かを覚えること以上に重要なのが、「わからない」との付き合い方です。技法53「わからないルートマップ」の解説が見事にそれを説明してくれています。
まず、「わからないルートマップ」では、「わからない」を三つのタイプにわけます。
- 不明型(何がわからないかもわからない)
- 不定型(解釈がたくさんあって決まらない)
- 不能型(解釈は決まってきたが矛盾が残っている)
学ぶことは、上のタイプから下のタイプに向かって進んでいくわけですが、注目したいのはどれも「わからない」が付きまとっている点です。
私たちは、学ぶことを少しずつ「わかっていく」こと(あるいは「わかる」を積み増していくこと)だと考えがちですが、実際はもう少し複雑な形をしています。
だいたいにして、「わかる」ことが増えるほど、「わからないこと」が可視化されますし、それ以上にある程度「わかって」くると、既存の知識とうまく合致しない部分が出てきます。その際に、いったん自分が「わかっていること」をチャラにして、新しい理解へと至る必要が出てくるのです。
線形に「わかる」が増えていくと考えていると、このようなリセットからの再構築はひどく辛く感じるでしょう。しかし、それができなければ、知識の階層アップは望めません。平屋で建てた建物を二階建てに変えるには一度取り壊す必要があるのです。
結局、私たちは「わからない」から逃れることはできません。「わかる」を求めて学ぶことをスタートしても、「わからない」はいつまでもそのそばを並走してきます。
むしろ、そのように心積もりしていないと、わかりやすい「わかる」を提供してくる怪しい団体に取り込まれてしまいます。
メタノート
そして、最後の技法「メタノート」です。
一瞬技法名だけ見て、外山滋比古さんの「メタ・ノート」のことかと思ったのですが、実際は違っていました。独学で行ったそれぞれの学びの内容についてのノートではなく、独学そのものについてのノートという意味です。
本書で紹介されている55個の技法の中で、この技法が最も大切であると私は感じました。独学を始めたばかりの頃は難しいかもしれませんが、少し慣れてきたらこのメタノートを書くようにしてみると良いでしょう。
なぜ、そんなにこのノートが大切なのか。
理由はいくつもあるのですが、一つだけ代表的なものを挙げるとすれば、「独学は、間違いなく挫折するから」です。
本書がどれだけ手助けの技法を提示してくれていても、そこに強制力はありません。それこそが独学が独学たるゆえんです。そして、あなたにどれだけやる気や意志があろうとも、自分の力ではどうしようもないトラブルがやってくることがあります。
そうしたトラブルが、365日のうち1日しかなくても、独学の手を止めてしまうには十分です。そして、独学が継続の中で行われるのならば、そうしたトラブルはいつしか必ず起きます。
強制力を持たない独学は、そうしたトラブルから復帰するための他律的な力を持っていません。よって、一度の挫折がそのまま長期的な挫折へと滑り込んでいくのです。
メタノートは、そうした状態から復帰するために間違いなく力になってくれます。自分が何をどんな風に進めてきたのかを思い出せれば、自分の心に力が戻ってきます。なにより、もう一度ゼロから始めなくても良い、という安心感があります。ある種の「冒険の書」です。
また、その安心感は、同じようにメタノートを続けていれば、もう一度挫折してしまった未来の自分への贈り物になることもわかります。
分断されがちな私たちを、一つのつながりの中においてくれる装置。それがメタノートなわけです。
固有な私たちを肯定する
我々は、才能についても経験についても他と異なるユニークな存在だ。あなたより優れた学習者はいくらもいるが、あなたと同じ学習者はいない。
それぞれの人は固有です。才能や経験だけでなく、何を求めているのか、何にやる気を感じるのかも多様です。そして、置かれた環境も一様ではありません。
ごく単純に言って、実家が裕福な人とそうでない人の、可処分時間や可処分所得は変わってくるでしょう。同じ方法論が通用すると考えるのはあまりに現実を無視しています。
現代において本書が際立った存在を持っているのはこの点です。それについては、また次回詳しく検討することにしましょう。
(つづく)
▼倉下忠憲:
新しい時代に向けて「知的生産」を見つめ直す。R-style主宰。メルマガ毎週月曜配信中。