2010年7月3日に梅棹忠夫氏が死去されました。この連載の骨格とも言うべき『知的生産の技術』の著者です。私だけではなく、多くの方がこの本を参考に知的生産について考えられてきた事でしょう。
今回は『知的生産の技術』が書かれた時代と、このクラウド時代で一体何が変わったのかを考えてみたいと思います。
知的生産の必要性
報道関係者、出版、教育、設計、経営、一般事務の領域にいたるまで、かんがえることによって生産活動に参加している人の数は、おびたただしいものである。
40年以上前に書かれた『知的生産の技術』よりの引用です。このような情報に関わる産業は現代ではさらに拡大しています。では、知的生産の必要性は増してきているのでしょうか。
40年以上前と現代での差異として考えられるものは「パーソナル・コンピューター」の有無でしょう。オフィスに一人一台割り当てられる高性能なパソコンは「仕事」に大きな影響を与えました。
それまで仕事の中に含まれていた雑多な作業をパソコンが代わりにやってくれるようになりました。帳簿を付ける際にやることは、データを入力することだけです。合計値を電卓で入力する作業は必要ではなくりなりました。同じように多くの職場で今まで人間が時間をかけてやっていた作業がパソコンのアプリケーションによって置き換えられています。
このような変移は人間の仕事が楽になったと見ることも出来ますが、逆にパソコンに人間の仕事が取られた、という風に見ることも出来ます。今まで雑多な単純作業を「仕事」にしていた人の居場所がなくなりつつあるわけです。
パソコンが導入されたばかりの時はこうした変化はそれほど意識されていなかったのかも知れません。パソコンを使えること自体が一種の「スキル」として認識されていました。ただ、インターネットの登場でそういった業務を海外に委託することが可能になりました。二つ目の変化です。アメリカでは顕著ですが日本でもそういった事例が増えてきてもおかしくありません。
パソコンの一般化と、インターネット環境の整備。この二つの変化によって「単純作業が出来ること」の仕事的な意味づけは減り、「かんがえて、新しい情報を生み出せること」の重要性は増してきているといってよいでしょう。
プロとアマの境目
先ほど上げた二つの変化は、産業構造の中だけに留まらず社会全体へも影響を与えています。特に表現の世界ではすでに変化が起きているといってよいでしょう。
動画サイトのへ投稿と、その反響から素人の作品がメジャーになる事はすでに珍しくもありません。能力とある程度の技術、そしてオープンにしていくメンタルさえあれば、そういった門戸は誰にでも拡げられています。
これは、プロとアマの境界線が非常に曖昧になってきているとも言えます。大量のアマがプロの競争相手として控えているわけです。
この状況をiPhoneやiPadといったデバイスとクラウドが加速させます。パソコンに対して敷居を高く感じていた人でもこれらのデバイスは非常に扱いやすいものです。またクラウドは安価でありながら高性能なツールを使用することができます。ネットを使って発信する人も、それを受け取る人も、これらのデバイスやツールが普及すればさらにその数を増やしてく事になるでしょう。
音楽や小説といった表現活動、ジャーナリズムや評論、そういった世界では「資格」というものが存在しません。やりたければ、そしてやり始めれば誰もがそういった活動に参加することができます。
ユビキタス・ネットとクラウド化。これが3つめと4つめの大きな変化です。
その変化にさらされたプロとアマの境目が曖昧な世界では、ポジションや地位に甘んじることはできません。「かんがえて、新しい情報をうみだせること」がその人の価値になっていくはずです。
知的生産の本質とは何か
時代によって、私たちを取り巻く環境と知的生産の重要は変化しつつあります。しかし、本質となる要素はどうでしょうか。
『知的生産の技術』より再び引用します。
既存の、あるいは新規の、さまざまな情報をもとにして、それに、それぞれの人間の知的情報処理能力を作用させて、そこにあたらしい情報をつくりだす作業なのである。
知的生産を料理に例えれば、食材が情報、調理器具がツールやデバイス、そしてシェフが自分の頭です。
食材がどこでも、だれでも手にはいるようになり、高性能な調理器具が安価に手にはいるようになったとしても、シェフである私たちの脳は変化していません。「人間の知的情報処理能力」を作用させることが知的生産の本質であるにも関わらず、その能力自体は40年前とさほど、あるいはまったく変わっていないでしょう。だからこそ、40年前に語られた技術にも現代に通用する部分があるわけです。
情報を集め、ツールを揃えても、肝心のシェフがいなければ美味しい料理はうまれません。これは40年前でも、現代でもまったく同じ事が言えます。むしろ、情報が多すぎたり難しすぎるツールに囲まれたりして、シェフがその力を発揮できていないという状態になっているかもしれません。
知的生産は「かんがえることによる生産」です。それはコンピューターが思考できるようになるまで変わることのない本質であるといってよいでしょう。
まとめ
「たくさん情報を持っていること」=力、という時代はすでにネットとグーグルの登場で終わりを告げてしまいました。これから差別化を生むのは、そこから「かんがえて、新しい情報をうみだせること」です。
知的生産の技術はあくまでそれをサポートするためのものでしかありません。自分の頭で考えることなしに生み出された情報は価値もなければ、差別化を生み出すこともありません。大量の情報を集め、最新のツールを装備していても、「自分の頭」で考えなければ知的生産を行っているとは言えないのです。
これはクラウド時代でも同様です。むしろクラウド時代だからこそ「自分の頭で考える」事の意味は増してきているといえるのではないでしょうか。
▼参考文献:
この連載の出発点となる一冊です。
その名の通りの一冊。
新しい時代の形を考える上で参考になる一冊。
▼今週の一冊:
今週は資料の読み直しやら、原稿の執筆に追われていたので読了した本が一冊もありません。とりあえず、読み始めた本としては次の一冊があります。「政治哲学」という小難しい話を身近な話題にして、また自分の事柄として考えさせる、サンデル教授の講義を放送した「ハーバード白熱教室」という番組をご存じの方もおられるかも知れません。その講義の元となった本の邦訳です。とても魅力的な講義だったので、今から楽しみにして読むことにします。
ようやく執筆させてもらっている本の原稿が書き上がりました。またこれからいろいろな作業が待っていることでしょうが、とりあえずは一段落、という感じ。これが終わったら、メルマガと電子書籍をやろうかなと考え中です。
▼倉下忠憲:
新しい時代に向けて「知的生産」を見つめ直す。R-style主宰。