Tak. そう、途中経過って見たいですよね。でも見せてくれる本はあまりない。そういう「コンセプト」は書きながらけっこう自覚的に探してる感じなんですか。
Marie なんか待ってるんですよね。ごにょごにょしながら待ってます。
Tak,Marie. The unnamed writing method case 2 Marie (Japanese Edition) (Kindle の位置No.549-552). Tak. Kindle 版.
ここでは、一般的にイメージされる「コンセプト」とは逆向きの動きが紹介されています。
よくあるイメージでは、コンセプトはその本の企画案をスタートさせるときに決められるものでしょう。「これこれこういう本を書きましょう」という感じで。そうしたコンセプトがあるからこそ、素材が集まり、文章が構成されていくわけです。
しかし、上記ではコンセプトは「書きながら探していたり」「ごにょごにょしながら待っていたり」するのです。
この点について、以下の三つのポイントを辿りながら考えていきましょう。
- 書きたいことは、書きながら考える
- 動かしながらコンセプトを待つ
- コンセプトは後付けでいい
書きたいことは、書きながら考える
単純な因果モデルでは、私たちは何か「書きたいこと」があるから、それについて文章を書くという行動を起こすことになるのでしょう。もちろん、実際にそういう状況になることもありますが、そうでない場合もあります。
書きたいことはあるけれども漠然としていて輪郭線がハッキリしない場合もありますし、書きたいことはなかったのだけどもむやみやたらに書き殴っているうちに、ぜんぜん別のことが書きたくなってくる、なんてこともあります。単純ではありません。
特にやっかいなのが、書きたいことはあるけども、それが漠然としているときです。書きたいことがないならば、そのままスルーすればストレスフリーです。しかし、書きたいことがある場合、それはモヤモヤとして胸の中に残り続けます。でも、何が書きたいのかははっきりしないのです。これはストレスフルですね。
そういうときに、どうすればいいのでしょうか。
答えは簡単で、そのことについて考えるのです。もっと言えば、考え続けるのです。それ以外にそのモヤモヤがハッキリすることはありません。
しかし、徒手空拳で単一の対象について考え続けるのは簡単ではないでしょう。やってやれないことはありませんが、さまざまな事柄が頭を駆け巡る私たちの忙しい人生においては、なかなかな困難を伴います。
そこで、それを文章化するのです。文章を書いて、考える。文章を書きながら、そのことについて考える。その行為を通して、自分が何を書きたいのかを発見していくのです。
動かしながらコンセプトを待つ
文章を書き続けていくうちに、自然と何が書きたいのかがはっきりしてくる場合もありますが、そうでない場合もあります。難しい手術のように、対象が奥底に眠っている。そんな感覚が近いかもしれません。
そうしたときは、「動かす」ことで対象を揺さぶっていきます。
何を動かすのか?
文章です。そこにある文章をぐいんぐいん(あるいはごにょごにょ)動かしながら、対象の発見を待ちます。
順番を入れ換えるのでもいいでしょう。表現を変えたり、たとえを変えたり、極端に短くしてみるのも手です。追記したり、追加したり、引用してみたりも面白いかもしれません。タテをヨコに、平面を立体に、立体をリニアに変えてみると、違った風が吹いてきます。
そうした動きを加えながら、ずっと付きまとう影のように問いかけるのです。「自分が書きたいことは何だろうか」と。
そしてあるときに答えが見出されるのです。「そうだ、これは○○についての文章だ」と。「そうか、自分は○○について書こうとしていたのか」と。それはどうあがいても「発見」としか言いようのない現象です。創り出すのではなく、見出すものなのです。
コンセプトは後付けでいい
そうした「答え」(正解ではありません)が見つかったら、それを軸に文章を整えていきます。「答え」に合うように、内容を再構築していきます。
ときに、驚くほどの大手術が必要となる場合もあります。たとえば、第三章の第三項目目の内容だったものが、第四章として独立することもありますし、一つの章が丸々消失することもあります。残念な結果であり、非効率な作業でもあるでしょう。
でも、仕方がありません。
だって、自分が何について書きたいのかを自分が知らなかったのですから。それは、書くという作業を、つまりは考えるという作業を通してようやく見出したものなのですから。
その発見から振り返れば、最初に設定したコンセプトやテーマは、仮のもの(あるいは叩き台)だったと言えるでしょう。しかし、その叩き台は、真剣に叩いてこそ意味があります。「所詮仮のものだし」という姿勢では、十全に考えることはできないでしょう。
しかし真剣に叩こうとすれば、その「仮のコンセプト」は自分にとって大切なものになります。少なくとも、目指すべき一つの方向として価値を持ちます。だから、後からコンセプトが発見されることが「残念な結果」や「非効率な作業」に感じられるのです。
そう考えると、その感覚を完全に消失させることはできなさそうだな、と予想が立ちます。ある程度はその感覚と付き合っていく必要があるのでしょう。
ともあれ、後から発見された「コンセプト」に沿って、内容を構成することは決して悪いことではありません。そういう手順を踏まなければ見出せなかったものがそこには含まれているからです。
だから、コンセプトは後付けでいいのです。あるいは、後付けがいいのかもしれません。
さいごに
上記のような書き進め方は、最終的な内容よりも少し(あるいはかなり)広めの範囲を探索していると言えるでしょう。
フィールドを区切り、その中だけで探索を進めれば、非常に効率的に作業が進みますが、個人的な体験から言って、その成果はそのフィールドの大きさよりもいくらかは確実に狭いものになります。
一方で、フィールドを区切りつつも、その境界線をまたいで外にも出るような探索をすると、だいたいは非効率に作業が進みますが、結果としてその成果はフィールドよりも広いものになります。いや、さすがに「なります」と力強く断言することはできませんが、そう期待することはできます。
ただし、境界線をまたいで外に出ると、当然のように迷子になる可能性が出てきます。だからこそ、「自分が書きたいことは何だろうか」を一つの目印として、意識的に領域を区切っていくことが必要なのです。
▼今週の一冊:
「数学」とついていますが、何かを学ぶことについて、何かを教えることについて非常に教えられることの多い一冊です。
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というわけで、大きい本ほど書き上げるのに時間がかかってしまうわけですね。なにせ探索する領域が非常に広く、しかもコンセプトを発見した後の再構築も巨大なものになってしまうわけで。現在鋭意その作業を実施中です。
▼倉下忠憲:
新しい時代に向けて「知的生産」を見つめ直す。R-style主宰。メルマガ毎週月曜配信中。