» 勉強の哲学 来たるべきバカのために (文春e-book)[Kindle版]
そもそも勉強とは何か。そして、どうやって勉強するのか。
哲学的なことと、実用的なことが見事な織り目で語られています。これから世界に飛び込もうとする若い人であれば、何かしらが受信できる本でしょう。
引き出したい内容はたくさんあるのですが、ここでは4つのポイントに絞って紹介してみましょう。
言葉という道具
慣れ親しんだ「こうするもんだ」から、別の「こうするもんだ」へと移ろうとする狭間における言語的な違和感を見つめる。そしてその違和感を、「言語それ自体として操作する意識」へと発展させる必要がある。
たとえば私は日本語を話しますが、そんな私が英語について学ぶと、日本語のすごさや特殊性が改めて感じられたりします。当たり前のように使っていた言葉が、これまでとは違った響きを持って感じられるようになるのです。
その感覚を覚えているとき、私は自分の言葉を「日本語」として捉えています。手を動かすような肉体の延長ではなく、得体の知れない塊のようなものとして捉えているのです。
わかりやすいように言語の勉強を例に挙げましたが、その他の勉強でも本質は同じです。それぞれの分野は独自の言葉や言葉遣いを持っており、その分野に親しむことは言葉や言葉遣いに親しむことを意味します。その「親しむ」までの間に、必ず今まで使っていた言葉に違和感を覚える地点を通過することになります。本書の表現を借りれば、言葉の道具性に気がつかされるのです。
言葉と意味の対応は──かっこよく言えば、シニフィアンとシニフィエの対応は──恣意的、便宜的、習慣的なものでしかなく、「あえて」やろうと思えば、いくらでも変えていける、という発見は、実は発想法の多くを支えています。
言葉遊びをする人は、皆言葉を「遊び道具」として使っているわけですが、新しい発想を生み出す思考法も、自分の中に存在している「言葉と意味の対応」から逸脱しないかぎりは到達できません。言葉の道具性から言葉の玩具性へジャンプする必要があるのです。
自分を「浮かす」勉強
勉強によって自由になるとは、キモい人になることである。
何かを勉強したり、新しい知識を蓄えたりすると、自分の中に何かが増えたような感覚が生まれます。「重く」なるわけです。
その「重さ」は、その場に自分を位置づける力として働きそうなイメージがありますが、実際は逆のことが起こりがちです。「浮いて」しまうのです。
もしかしたら皆さんにも経験があるかもしれません。何かを知っていることで、その場にそぐわないことをついつい口にしてしまう。そういう経験です。キモい人──山本七平さんの表現を借りれば「空気に水を差す人」──になってしまうのです。
あえて比喩的に表現すれば、何かを勉強したことで自分の中にある磁極が変化し、その場が持つ磁力と反発してしまう、と言えるかもしれません。
その「浮いた」感じは、不安定なものであり、不安感も引き起こしますが、しかしながら「浮いている」からこそ別の場所に移動できる可能性を獲得したとも言えるでしょう。勉強とは、そのような遊離性を獲得するためのものでもあるのです。
教師のありがたさ
教師は、まずは「このくらいでいい」という勉強の有限化をしてくれる存在である。
インターネットで調べれば、大抵のことはわかる、というのは素晴らしい情報ユートピアのようにも感じられますが、何をどのくらい調べればいいのかまったくわからないというディストピアでもあります。
たとえば何かの分野に興味を持ち、Amazonで本を検索したら100件以上の検索結果が返ってきたとしましょう。一体どこから手を付けていいのかわからず混乱するのではないでしょうか。情報が星の数ほどあるからこそ、ガイドの存在が重要となります。
また、一冊の本があるとして、その本の中にある情報がすべてインターネットで発見でき、かつインターネットではそれ以上の情報を見つけられるとしても、その本に価値がないわけではありません。むしろ、「まずはこれだけ」と情報を厳選してくれていることに大きな価値があります。
インターネットによって、膨大な数の情報が利用可能状態にはなっていますが、利用可能状態であることは実際にそれを利用できることを意味しません。検索のためのキーワードを知っているかどうか以前に、ひとりの人間がすべてのページを調べ尽くすことそのものが無理なのです。
教師(あるいはガイド)による限定(有限化)がなければ、人は情報圧に押しつぶされ、やがては興味そのものを消滅させてしまうでしょう。うまい勉強のやり方とは言えそうにもありません。
情報の信頼
自分なりに考えて比較するというのは、信頼できる情報の比較を、ある程度のところで、享楽的に「中断」することである。
考えることは、考え続けることです。絶対的なものを置いてそれで納得してしまうのではなく、飽くなき探求を続ける、ということです。
最近ニュースの信頼性が問題にされています。間違ったニュースが流れて、それを信頼してしまう人も出ているようです。経済的あるいはその他の損害が発生するようなこともあるかもしれません。そこでファクトチェックなるものも登場しています。
ではもし、ファクトチェックを担当する第三者的な機関が生まれ、その機関がニュースをチェックしてくれていれば、私たちはニュースを鵜呑みにしても大丈夫なのでしょうか。ファクトチェックをするその第三者機関の信頼性は誰が担保してくれるのでしょう。
もちろんそんなことを言い始めればキリがありません。第三者機関の信頼性を確かめる機関の信頼性を確かめる機関の信頼性を……と無限後退が始まります。どこかの時点では、「まあ、信頼できるだろう」と絶対確実な保証がなくても信頼しておかないとまともにニュースを読むこともできません。
でもそれを、「絶対に信頼できる」と永久保証するのではなく、一時的な「中断」として扱う。つまり、何か怪しい動きがあれば、注意を払い、再び信頼性について検証してみる、という可能性を残しておくこと。そういう危機感を常にキープしておくこと。それが「中断」の姿勢です。映画『シン・ゴジラ』では、東京のど真ん中でゴジラが「中断」していますが、まさにあのような感じだと言えるかもしれません。
さいごに
というわけで、『勉強の哲学』について4つのポイントを紹介してみました。他にも読みどころがたくさんありますので、実際に読んでもらうのが良いかと思います。
本連載が肌に合うならば、本書も楽しめるはずです。
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現在、もう何度目になるのかまったくわかりませんが、何度目かのEvernoteの再構築を行っています。今回はノートブックをできるだけスタック中心に再編することと、アイデアノートの扱い方を変えることがメインです。結構時間がかかりそうです。
▼倉下忠憲:
新しい時代に向けて「知的生産」を見つめ直す。R-style主宰。
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