「本を書く」といっても書くのはメモ、なのでしょうか。
別に喧嘩を売っているわけではありません。むしろ、半分以上は共感しています。実体験から言っても頷けます。でも、何か引っかかるのです。
本に書くべき文章の断片を、メモに書き付けておくということは、あまり多くありません。だから、メモをかき集めても、それだけでは原稿にならない。だから、Twitterをかき集めれば本になるというお話に、私は興味がないのです。
ではメモにはいったい何を書くのかというと、ある本を書くときに、忘れてはならない何かです。たとえばその本に盛り込むべき要素であったり、約束事であったり、急に思いついたうまい言い回し、あるいは具体例であったりします。
私は本とメモというテーマがあると、いつも次のエピソードを思い出します。
ヴィクトール・フランクルである。彼は文字どおり骨と皮に成り果てて強制収容所を生き延び、本書『夜と霧』を著した。9日間で一気に書き上げたという。
フランクルは、言うまでもなく、収容所内ではメモを使うことができなかったでしょう。それにしても、メモとペンを欲した機会が、無数にあったことでしょう。
実際、彼は本を書いたわけですが、本を書くに当たっては、メモを使ったのでしょうか? 収容所を出て、本を書くことができる環境を手に入れたとき、彼はまずメモに何かを書いたでしょうか? それとも原稿にいきなり向かったのか? 原稿を書いている最中に、メモをたくさん使ったでしょうか?
メモは「中断を得るための道具」
私には「9日間で一気に書き上げた」というエピソードから、普通ならメモするところも全部原稿に書き付けていったのではないだろうか、という気がしてしまうのです。
メモというのは、本を書くためであってもスーパーで買い物をするためであっても、「中断を得るための道具」です。あるいは、同じことですが、中断せざるを得ない人のための道具です。
つまりメモというのは、繰り返しますが、原稿の断片ではなくて、原稿を書くという行為をサポートするための道具なのです。
ちょうど、「トマト」と書かれているメモは、買うものの断片なのではなく、買う行為を助けるためのものであるのと同じことです。
トマト自体をトリガーにして、確実に買い物カゴに入れられるなら、メモなどなくてもかまわないわけですが、あった方がより確実に、その場で必要な行動を起こすためのプログラム=「ロボット」を召喚させられるのです。
メモは、「ロボット」を召喚するための、呪文の書のようなものです。
したがって、フランクルの過酷なエピソードのように、メモを使うことができず、同時に他のいかなる行為による中断も許さないということが可能であれば、つまり、原稿を書く「ロボット」だけを1度召喚して、あとは本を書き上げるまでその「ロボット」を集中的に使いつづけるのであれば、「メモ」など不要になるかもしれません。
私が本を書くためにどうしてもメモを必要とするのは、9日間で一気に書き上げることができるほど、作家業だけに専念するわけにはいかないうえに、そうするだけの気力にも恵まれてないからです。どうしても他の行動が、間に差し込まれます。
すると、ある原稿を書くために必要な「ロボット」を呼び出すための時間がいちいち必要になるし、心境によっては呼び出せなくなる。
そうなっては困るから、「こんなことを書く」とか「こんな具体例を入れると面白くなる」とか「こんなことを思いついた! オレすごい!」などが書かれた「メモ」によって、内容、事例、情動など様々な「サブセット」で重たくなっている「ロボット」を、無意識の奥から引きずり出してやる必要があるのです。
こうしてみるとわかるとおり、しばしば「メモ」には「原稿の中身そのもの」が書かれていることもあるわけですが、「メモ」をつなげても、原稿にはなりません。
しかし、非常にたくさんのメモが、すべて適切な内容を持っていて、しかも適切な指示書になっていれば、それをていねいに整理することで、「本」を作り上げるのに理想的な「周辺機器」を揃えられたようなことにはなります。
そういう意味では「『本を書く』といっても書くのはメモ」というのも、あながち不正確ではない。ただ、言っている意味は少し違う、というわけです。