これまでそうした話題は、書斎や研究室の中に閉じ込められていました。密室と言うと大げさですが、あまりパブリックに公開されることはなかったのです。
そこにクリティカルな打撃を与えたのが『知的生産の技術』でした。
素材はある。されど……
この本の後に続くようにして、「知的生産」について書かれた本が次々と出版され始めました。言葉が定義され、ジャンルが誕生したのです。
一冊一冊名前をあげることはしませんが、「知的生産の技術」や「知的生活の方法」に関する本がほんとうに数多く出版されました。中には、現代まで読み継がれている、古典とも呼べる本もあります。
当初、筆をとっていたのは学者さんだけでしたが、徐々にジャーナリストさんにもその輪は拡がっていきました。どちらにせよ「知的生産」を生業としている人たちです。そうした人たちの「技術」や「仕事ぶり」が多くの人たちに知られることとなりました。
おそらく「新書」という形態も一役買っていたのでしょう。
(今はどうかわかりませんが)一昔前の新書は、専門的な学問のお話を一般市民にも理解できるように「開いた」入門書が数多くありました。一般市民の教養を支えていたわけです。そのようにして、「知的生産」を生業としない人たちにも、知識は広く行き渡ることとなりました。
しかし、それだけでは「素材あっても、道具なし」な状況です。
本を読んで知識を蓄えた。いろいろ考えもした。じゃあ、その次はどうしたらいいのか。
おそらくそんな状況が生まれていたのではないでしょうか。一般市民の多くは、別に知的生産の専門分野に従事しているわけでもありませんし、師匠がいるわけでもありません。読書によって知的好奇心が刺激されても、その先に進む術を持たないのです。
岩波新書の創刊が1938年ですが、そこから30年ほど経った1969年に『知的生産の技術』が出版されたのも、「いろいろ読みはしたが、出す術を持たない人たちのもやもや」が溜まりに溜まっていた背景があったのかもしれません。
だからこそ、『知的生産の技術』は新書で発売されましたし、その後に続く本たちもほとんどが新書となりました。背景を考慮すれば、これはしかるべき着地点と言えるでしょう。
現代の「知的生産の技術」
話は変わって、視点を現代に戻します。
現代では「知的生産」を生業の一部としている人は数多くいます。いわゆるホワイトワーカーと呼ばれる人たちは皆そうです。
また社会の情報化が進むことで、ごく普通に生活していても「知的生産の技術」が、__その名前を露わにすることなく__ひょっこり顔を出すことが珍しくありません。たとえば、ネットの情報をどう評価するのか、SNSでどう発信するのか。こうしたことは紛れもなく「知的生産の技術」の一部です。
とは言え、まだその「技術」はさほど普及も研究もされていません。あくまで個人技に留まっていて、仕事場の中に閉じ込められているような状況です。
たまに著名なビジネスパーソンの「仕事術」が本として出版されることはありますが、ほとんど例外的な話と考えてよいでしょう。限定的な分野の話が大半ですし、そうでなくても「知的生産」に従事している人の数の多さを考えれば、情報は圧倒的に不足しています。
ここ最近Excelの使い方に関する本がよく出版されていますが、まさに情報不足の状況をよく表しています。ある種の人たちは「いまさら、こんな基本的なExcelの話かよ」と思われるかもしれませんが、その認識が間違っていることは、こうした本が売れていることが示してくれています。
皆が「当たり前」だと思っている技術は話題にのぼらず、後からきた人たちには共有されません。それはまさに『知的生産の技術』以前の「知的生産の技術」に関する話と同じです。
しかし、今後状況は変化していくことでしょう。
主役と舞台の交代
昔は、書き手は学者で、舞台は新書でした。現場にいた人が学者で、伝わるメディアが新書だったからです。
これからは、書き手はホワイトワーカーで、舞台はセルフパブリッシングとなっていくでしょう。時代の趨勢はそちらを向いています。
1969年に比べて、状況は大きく変化しました。ここでは3つに絞ってみていきます。
まず、「文章を書くための技術とツール」が進歩しました。「執筆」に苦労が伴う点はいつの時代でもかわりませんが、執筆の上で注意すべき技術的な話や、それを支えるツール群は充実してきています。
また、仲間やパートナーを見つけやすくなっている環境もあります。もちろん最後の最後はひとりでコツコツと原稿用紙(というかエディタ)に向き合う必要があるわけですが、ネットを介することで、アイデアを議論したり、下読みを頼んだりする人を、研究室や学会に属していなくても見つけることができます。
最後に、出版にかかるコストが劇的に低下しました。この連載でも度々触れている話ですが、少しの面倒な作業を乗り越えられる程度のやる気さえあれば、誰でもが「本」を出版することができます。
このような状況から、今後はホワイトワーカーが、自らが持つ「知的生産の技術」を次々に公開するようになっていくでしょう。
さいごに
もちろん、ブログを使っても同じようなことはできます。しかし、「本」というパッケージが持つ力は見逃せません。
どうしても「技術」の話は断片的になりがちで、それらを統一するコンテキストがないと、技術レベルの話に留まってしまいます。不思議な話ですが、技術の話をするためには技術の話だけでは足りないのです。そこで、コンテキストを統一するパッケージの存在が重要となってきます。
その意味で「本」は、将来にわたって欠かせない存在と言えるでしょう。ただし、主役と舞台は時代の変化に応じて変わっていくはずです。
ちなみに本稿は、「来るべき未来」風に書いてありますが、実際は「すでに起こりつつある未来」の話であることを最後に添えておきます。
▼今週の一冊:
まだ読んでいないのですが、すごく楽しみな一冊です。
読了したら、また紹介記事を書いてみます。
▼倉下忠憲:
新しい時代に向けて「知的生産」を見つめ直す。R-style主宰。