結論から言うと、やめようとしている限りはやめるのはむずかしいので、アプローチを変えたほうが良いです。
「やめる」代わりに「一時的に休む」と考えることです。
やめたいのにやめられない
「やめる」とは、やめなければ今後も得られ続けるであろう「快」を即座に断つことを受け入れる、ということですから、気が進まないのも当然です。厳しいムチです。ますます強くしがみつくでしょう。
そこで、「再開したくなったらまた後で再開できるから」というアメを用意します。
すでに「やめるべき」なのは分かっているので、ここから「後で再開できるならいいか」という妥協の余地が生まれます。
「やめる」という致命的な衝撃が緩和されるために、やめやすくなるのです。
とはいえ、「一時的に休む」ことを受け入れれば、実質的には「やめる」ことになります。
一時的であれ、やめられるのです。
一時的と思ったことでも、一度やめてしまうと再開がむずかしくなることがあります。
結果的に「恒久的に休む」、すなわち「やめる」ことになるため、所期の目的が果たされるわけです。
やめたくないのにやめなければいけない
逆のケース。やめたくないのにやめなければいけない場合です。
実はこの場合も同じ手が使えます。
諸事情および諸しがらみにより「やめる」わけにはいかないのであれば、一時撤退して体勢を建て直すべく「一時的に休む」のは対外的に受け入れられやすいものがあります。
たとえば、雑誌は「廃刊」ではなく「休刊」とされます。
梅棹忠夫さんは『情報の文明学』に以下のように書かれています。
『放送朝日』休刊のしらせをうけた。まったく予期していなかったことで、たいへんおどろいた。どうしたというのだろうか。
休刊という語がつかってある以上は、廃刊ではなく、いつかは復刊する意志があるというふくみであろうが、おそらくはしらじらしい気休めにすぎまい、といえば発行者に失礼にあたるだろうか。
こういう仕事はうごきがとまったらだめだ。バイオリズムにのって、呼吸し、脈拍をうちつづけていてこそ、いきているといえるのである。脈動の停止したときが雑誌の生命のおわるときである。たとえ将来、同名の雑誌が発行されることがあったとしても、それはもうべつの生命体である。
まとめ
ということで、以下2つのケースについて書いてきましたが、
- やめたいのにやめられないときの対処法
- やめたくないのにやめなければいけないときの対処法
いずれもまったく同じ対処法「一時的に休む」でいけそうですね。