ある意味で「ミッシング・リンク」は、「成功の秘訣」であるように見えるからです。
そんな大切な「秘訣」がそこにあり、しかも隠されているように見えては、グッと迫ってみたくなるのが人情。
しかし、多くの場合、「成功の秘訣」にうんと近づいてみても、なかなか「これ」といった答えは得られないようです。
「ミッシングリンク」と「成功要因」
たとえば、「やっぱり運」ということがよく言われます。
Rumikoさんも「ラッキー」を何度か繰り返されています。
「幸運」「本当に運がいい」とは「成功側」のメッセージとして、よく聞かれる言葉です。
ただし、たいていはここでフォローが入ります。
「もちろん、運だけのはずがない」というものです。
功成り名を遂げた人がインタビューなどで「本当にラッキーでした」と述べているのに対して、聞き手が
「もちろん運だけでここまでこられたわけではない。本人のたゆまぬ努力、常に成長し続けようとする姿勢…」
などという形で結ぶわけです。
「ミッシング・リンク」としての運、努力、成長、姿勢。
これに才能と職場環境を加えてしまえば、要するに「成功要因」と呼んで良さそうなものの全部です。
全部揃うほどであれば、なるほど「成功」はするでしょうが、これを「秘訣」と呼ぶのでは面白くありません。
「最高の食材を、十分な時間と設備をかけて、料理名人が調理すれば、おいしいものができるだろう」と言われているようなものです。
1つだけの「成功要因」
そこであえて「1要素」に絞り込もうとするのが「秘訣」です。
したがって「秘訣」は、ウソとは言えないものの、とてもムリをして見いだされた「ミッシング・リンク」なのです。
「成功者」が語る「成功の秘訣」であれ、それ以外の人から発せられたものであれ、こうした強引な「結論」には「偏見」(バイアス)が激しくかかっているものです。
一般に「成功」の「要因」として非常によく見受けられるのが、「原因帰属の錯誤」と呼ばれるエラーです。
先の例で言うなら、「成功した人」は「その原因」を「外部」に見ようとするバイアスがかかるのです。
「外部」とはたとえば「運」であり、または「職場環境」や「仕事の難易度」がそうです。
このバイアスがかかった結果として、「やっぱり運がよかった」とか「環境には妥協しない」といった「秘訣」を当事者は発することになります。
そこを受け手がさらに単純化して「法則」として覚えておきたいと思うため、「成功には運」という結論が広がりやすくなります。
一方で、「まだ成功していない」人は「成功者」を「外側」から眺めることになります。
外側から人の行動を眺めるとき、私たちはその正否をその人の性質など、「内部」に求めるバイアスがかかります。
結果として「あの人が成功したのは、やはり努力したからだ。
才能があったからだ」という評判が立ちます。
どちらも「内的要因」なのです。
成功者は自分の成功要因を「ラッキー」だと言い、それを外から眺める人は、成功要因を「努力と才能のたまもの」だと言う。
あとは信じやすい方、心に残りやすい方を、「秘訣」として採用するわけです。
ですがこれで「ミッシング・リンク」が見つかるはずがありません。
と言うのも、これはただ「成功者」と「一般人」の偏見の中から、自分の嗜好に合わせただけの代物に過ぎないからです。
「けものみち」には「あいまい耐性」
結局「ミッシング・リンク」とはなんだろうと考えてみると、それは「1つの言葉に落とし込めない要素」ということになります。
「運」だとか「才能」だとか「誠実さ」がいかに大事でも、ただ1つの「要素」に落とし込まれたものは、「ミッシング・リンク」ではあり得ないわけです。
私たちには「偏見」(バイアス)があるので、どうしても「1要素」が際だって見えてしまいます。
それは仕方がありません。「運」や「努力」が他の要素よりも突出して見えるのは、やむを得ないことなのです。
しかし、「けものみち」を巧みに歩み抜くために、最も必要なことは「1要素」に頼り切らないことです。
ということは、自分の偏見からなるべく自由になるということになります。
バイアスから自由であるためには、そうするだけの精神力が必要になってきます。
それが心理学で「あいまい耐性」と呼ばれるものです。
心理的には、白黒はっきりしている方が楽ですから、「例外事象」や「グレー領域」を心に抱え込みたがる人は、まずいません。
現に、たとえば好きな人ができたとき、イエスともノーともつかない、「生殺し」の状態に置かれると、ストレスがかかります。
それから逃れたくて、「どっちかはっきりしてくれ!」と拙速に迫ってしまい、すげなく「ノー」といわれてしまうパターンも少なくないでしょう(身に覚えもあり)。
こういう状況に直面したとき、「あいまい耐性」はとても有効です。
「結果を強く求めるものの、結論を急ぎすぎない」という態度が、必要になるわけです。
そういった意味で、「恋愛」もまた、「けものみち」と言えるのかもしれません。