- やりたいことがなくても、やめないことはある
- やめられないこと、それが才能
聞けば誰もが知っている有名アーティストや一線で活躍するビジネスパーソンにボイストレーニングを提供するボイストレーナーの大槻水澄(MISUMI)さん。
音楽まっしぐらだったこれまでの人生は、決してまっすぐではありませんでした。
「ボイストレーニング(ボイトレ)のすばらしさを多くの人に知ってもらいたい」というミッションを掲げて、所属していた事務所から独立したものの、ビジネス知識に疎く、当初から大苦戦。
ボイトレという売りたい商品はあるのに、どのように売ればいいのかわからない。熱い想いがかえって空回りを助長するばかり──。
今回ご紹介する「独り立ちしたひとり」は、ボイストレーナーのMISUMIさん。
▼プロフィール
聞けば誰もが知っている有名アーティストや一線で活躍するビジネスパーソンにボイストレーニングを提供するマジカルトレーニングラボ主宰。
サントリー、資生堂、花王などのCMをはじめ、500曲以上のレコーディングに参加してきたボーカリストでもある。
アマチュア時代、「音程も、リズムも、ルックスも悪い」「絶対にプロにはなれない」と言われるも、300曲以上の洋楽曲を徹底研究&完全コピー。声を自在に操る能力を体得し、テレビで声を聞かない日はないほどの売れっ子スタジオシンガーとなる。
「鉄のノドを持つおんな」の異名をとる、自身の強靱な声を徹底分析するとともに、解剖学、フィジカル・トレーニング、呼吸法などを独学で学び、独自のメソッドを開発。
誰もが持つ、声本来の可能性を最大限に引き出すトレーナーとして、また、声とボーカルのノウハウを知り尽くしたアドバイザーとして、業界のみならず、声に注目にするビジネスパーソンにも圧倒的な信頼を得ている。
そもそも、なぜ「ボイトレのすばらしさを多くの人に知ってもらいたい」と考えたのか?
ボイストレーニングのスタンダードをつくる
ひとつのことに1万時間をかけることができれば、その分野で大成功を収めることができる、とはよく言われることですが、その大成功にたどり着くと、次のゴールが見えてくるもの。
MISUMIさんはどんな1万時間を過ごし、その先にどんな風景を見たのか。本人の話をもとに以下まとめてみます。
幼少時代
- 父にサラ・ボーン、エラ・フィッツジェラルド、ビリー・ホリディなどの歌を聞かされ、「歌ってのはこうやって歌うもんだ」「歌謡曲の歌手はへたくそだなぁ」と教えられて育ったことは生涯カラダと耳に残る。
- 父は、物心つく前から、萩原朔太郎 小川未明 草野心平などの読み聞かせをし、ジャズの名曲、Summer Timeなどを歌って聞かせてくれた。ちなみに歌はかなりいまいち。
- 母は布施明、越路吹雪好きの、一般人。歌謡番組もよく見ていたが、父が批判的だったので子供心に歌謡曲にネガティブな印象を持つ。
- 幼稚園時代、みんなの前で歌う事が大好き。おゆうぎ会でも常に主役級。
- 小学校時代、入学と同時にオルガンを習わされるも、人に何かを強制されることが嫌いで全く練習せず、お稽古もサボりがち、ほどなく、やめさせられる。
- 小学校4年生、ショパンの「子犬のワルツ」を弾く友達に憧れ、何週間もの間、休み時間になると、その子を追いかけ回して、右手だけでもと、弾けるようになるまで、無理矢理教えてもらう。
- 小学校6年生で、作曲コンクールに応募するという友達に触発され、初めて作曲。優秀賞をもらい表彰される。
中学~高校時代
- 中学1年の試験勉強の時、ラジオから流れたポール・マッカートニーとウィングスの「あの娘におせっかい」を聞いてカラダに電気的なショックを感じる(「青春でんでけでけでけ」でいうところの「電気的啓示」)。これがロックとの衝撃的な出会いとなる。
- 同居していたオーディオマニアの叔父の影響もあり、急速に音楽に傾倒。「ビートルズになろう」と決意する。
- 私立の女子校では、ほとんどが10年近くピアノを習っているという子ばかり。このままでは追いつけないと思い、クラス中のピアノが弾ける子に1週間の練習量をアンケートして歩く。そこから、旅人算で自分が一日に何時間練習すれば彼女たちに1年で追いつけるかを計算し、むきになって練習をはじめる。常に、指にトクホンを巻いて学校に通う日々。
- ほどなく、ピアニストになりたい、音大に行きたいと、母の友人に相談するも、「そんな年からはじめて、音大になんか入れない」「ポピュラーピアノに転向した方がいい」と諭され、それまで通っていた教室から横浜にある、その先生の教室に転入する。はじめて先生たちの前でシューベルトを弾いたとき、「やめて~~」と途中で止められる。「MISUMIちゃんの弾いてるのはクラシックじゃなくてジャズよ」と言われ、自分の音楽的なルーツを知る。
- 高校1年、友達の影響でコーラス部に入部。人と声を合わせて歌う事に快感を覚える。隣の席になった女の子がロック好きで「MISUMI、まだビートルズとか聴いてるの??あんなのもう古いじゃん」と飯田橋のリバイバル映画館へ連れて行かれる。そこで初めてレッドツェッペリンの映画「永遠の歌」を見て、ジミーペイジのあまりのかっこよさに大衝撃を受け、その場でギターリストになることを決意。
- 翌日、コーラス部に退部届を出す。
- 世界の3代ギタリスト、ジェフ・ベック、エリック・クラプトン、ジミー・ペイジにあこがれ、日々何時間もギターの練習に励む。
- 当時、試験勉強でもしていようものなら、父が部屋にやってきて、「MISUMI~。お前、試験とギターとどっちが大事なんだ~?」とからまれた。父はいつでも音楽に対してひたむきなあたしの味方だった。
- その頃からバンドをやりたいと強く望むも、退屈な女子高にはバンドをやりたいなんていう子は学年に数人(当時は一学年400人だったにもかかわらず)。あまりに熱烈過ぎたためか、他の子のスタンスとあわず、仲間はずれにされ、高校1年の文化祭を棒に振る。
- 翌年、念願の、初めてのバンド“RingXTrian”結成。ギタリストとして参加。文化祭でツェッペリン、ビートルズ、フリートウッドマックなどをやり、まずまずの成果を治める。この時、“カルメンマキとOZ”の存在を知り、日本の女性ロックボーカルにもこんなヒトがいるのかと感動する。
- 高校2年冬、新バンド“HalfWay”結成。受験期に入り、ますます寄せ集め的な要素が強くなり、イーグルス、ツェッペリンもやるが、サザンもオフコースもやるというまとまりのないバンドとなった。
- 生まれて初めての校外でのライブは大井町のシブヤ楽器。1曲やるごとにチューニングに10分。その間ベースの女の子が全く面白くない話を自分だけへらへら笑いながらしゃべり続けるという悪夢のようなコンサートになる。しかし、その時、見に来ていた早稲田高校の生徒たちからボーカルでスカウトされる。
- その後もバンド活動に明け暮れ、高校3年の11月半ばからようやく受験勉強を開始。かろうじて1校だけ受かった大学に入学。
大学~ボーカルスクール時代
- 大学でも引き続きバンド活動に打ち込むが、ギターは向いていないことを悟り、ボーカルに転向する。
- 黒人のような声にあこがれ、太りたくて必死に食べるも、限界があり、縄跳びをしてお腹を減らそうと試みるも逆に痩せ・・・試行錯誤を繰り返しながら独学で歌を学んだ。
- 大学4年、同級生はみな、就職活動に奔走する中、ボーカルスクールに通い始める。
- 当時、芸能界やテレビには全く興味がなく、目標は、「プレイヤー」や「ミュージックライフ」(音楽雑誌)を飾る、(当時花形だった)スタジオミュージシャンたちに、いつか、「お前の歌、すごい。一緒にやろう。」と言われること。そのためには持てる時間のすべてを音楽に費やさなくてはいけないだろうと思った。
- 結局、卒業後もバイトをしながらミュージシャンを目指すようになる。
- しかし、ボーカルスクールでは、挫折の日々。リズムが悪い、ピッチが悪い、ルックスが悪い、と言われ、コンプレックスとの戦いの毎日となる。
- リズムをよくするためにジャズダンスを始め、うまくなろうと「ボーカルコピーオタク」と化す(やがてコピーは生涯にわたる趣味となり、現在までに300曲近くの曲を、ホンモノと全く同じに歌えるほど、完全コピーしている)。
- 当時のバイト代はせいぜい10万円。実家とはいえ、ボーカル、ボイトレ、ピアノ、ジャズダンスなどのレッスン代と機材のローン、スタジオでの練習代でそのほとんどは消える。自宅のあった鮫洲周辺から、東京タワーまで自転車で通い、カップラーメンを食べていた。
- あまりに冴えない毎日。母からも毎日のように「いい加減に自立しろ」と責め立てられ、何度もあきらめて就職しようと思うが、翌朝にはピアノの前に座って発声練習している自分がいる。ポジティブな要素は何もないのに、なぜか、できない気がしなかった・・・。
スタジオミュージシャン時代
- そんなとき、ボーカルスクールの同級生で、スター的存在だったボーカリストKに、「自分の歌、いいって言う人、絶対いる。100人に聞かせて、100人にダメって言われてからあきらめぇ。」と背中を押され、自分のバンド結成を心に誓う。
- 翌週、ボーカルスクールの同級生にバンドを作りたいと頼みに行くと、「おれも、MISUMIさんとバンドやってみたいと思ってたんだ。メンバー、俺にまかせてくれる?」と飛び上がるほど嬉しいことを言ってもらい、11人編成のソウルバンド、“The Power Of Soul”結成となる。
- そのライブに来てくれていた友人のHが、そのライブのテープを自分の師匠たちに配ってくれたおかげで、いきなり10才近く年上のプロ・ミュージシャンたちにライブや仕事に誘ってもらうようになる。
- その後、アーティストのサポートコーラスやCMの選曲、音楽制作などの仕事が次々と舞い込むようになる。
- そんな仕事の合間をぬってミュージシャンたちのデモテープ制作を手伝い始める。その場でつける英語の歌詞、声のインパクト、男声の曲も歌える音域の広さなどに加え、ギャラなしで歌うということで、評判となり、多くのミュージシャンとたくさんのデモを制作する。
- やがて、そのデモが徐々にいろいろな人の耳にとまりはじめ、大物プロデューサーから声がかかる。ラジオCMの曲作りや、ユーロビートのボーカリストとして多くのCD制作に参加するようになる。
- 仕事は順風満帆だったが、自分自身のボーカリストとしてのキャリアは今ひとつ。「ルックスがねぇ・・・」「年がねぇ・・・」「歌詞が英語じゃねぇ」に加え、「歌がうますぎるんだよね。これじゃ売れないよ」とまでいわれ、個人のキャリアは暗礁に乗り上げる。27才になっていた。
- このまま、スタジオミュージシャンで一生終わるのか?「ボーカリストとしての自分はラッキーだけど、ハッピーじゃない」が口癖だった。
海外武者修業時代(ニューヨーク、トロント、ロンドン)
- そんな頃、ライブハウスで、カナダのバンド“トーマス・トリオ&the Red Albino”と出会い、マネージャーのマイケル・ホワイトに「MISUMI、北米に来て歌うべきだ。北米は新しいジャニスを求めている」と言われる。また、六本木の小さなバー「BIBA」でパフォーマンスする折は、ジャニスのような日本人ボーカリストがいると聞きつけた在日外国人で店が満杯となる。意識しているわけではないのに、あまりにもジャニス・ジョップリンと比較されることに戸惑いを覚えながらも、漠然とアメリカに行きたいと思い始める。
- そんな折、心の友Kの突然の死。さらに祖母、父と、次々と大切なの人を失う。また、尾崎豊のツアーのオファーもあったが、それも彼の死により立ち消えになる。
- 失うモノはなにもない、と、残りの仕事のすべてを友達にゆずり、1992年夏、ニューヨークに旅立つ。
- ニューヨークで、はじめに暮らしたのはカソリック教会の寮。シスターたちはほとんどがスパニッシュ系でまともな英語を話せない。近くに有名なダンススクールがあったことから、フランス、スウェーデン、アルゼンチンなど、各国の才能あるダンサーたちと交友を深める。また、自らもダンスに通う。
- ニューヨーク生活を武者修行と位置づけていたため、ビレッジボイスでオーディションをみつけては、次々と出かける。黒人ばかりが集まるSUMI Entertainmentのショーケースにて、400~500人のオーディエンスを総立ちにさせる。あんなに憧れて、コンプレックスを抱いていた黒人たちから「お前はすごい」「そんな声、いったいどこから出るんだ?」などと口々に言われたことは、圧倒的な自信となる。
- ダウンタウン Speak Easy のオーディションでは即座に出演依頼を受ける。以降何度か Speak Easy の小さなステージにて、カラオケだけでロックライブをやることになる。オーディエンスのひとりが、「Wow, She’s Sooo Beautiful」とため息をついたのを見て、「結局、ルックスなんて、カッコよく見えればなんでもいいんだ」と、コンプレックスも薄れてゆく。
- この間、とある事件に巻き込まれそうになり、ニューヨークからトロントに移り住む。カナダでデビューしないかといわれ、エージェントをしていた友人宅に住み込んで、ライブ活動や創作活動をするも、土地柄や友人の家庭の事情など、ニューヨーク時代とのあまりの環境の変化について行けず、次第に孤立して行く。
- その後、人づてに知り合ったイギリスの伝説的シンガー、ロイ・ハーパーと意気投合。「MISUMIはもっと深い文化に囲まれるべきだ」とイギリスに招待される。
- 文化に飢えきっていたため、ロイに案内されるロンドンは魅力と刺激で満ちあふれていた。マクラーレンの専属カメラマンである、コリンの家に滞在し、美術館、博物館などを見て歩き、アイルランドのロイのスタジオを訪れ・・・自分が何を求めていたのかを自覚するようになる。
- そんな折、一時帰国した日本はバンドブームに沸き、音楽事情の変化を感じる。ジプシーのような生活に疲れ切っていたこともあり、とりあえず、一度仕切り直そうと帰国を決意。2年弱の放浪生活に終止符を打つ。
ボーカリスト・ボイストレーナー時代
- 1994年、変わった経歴が噂になり、帰国と同時に以前にも増してスタジオやサポートの仕事が次々と舞い込むも、しっくり来る方向性が定まらず、ふたたび暗礁に乗り上げる。
- 1996年、これからは「本当にドキドキすること」しかやらない。「何でもできるボーカリスト」ではなく、「これしかやらないボーカリスト」になろう、やっぱり、ロックだけを歌ってゆこう、という決意を固める。これが転機となる。
- かつて所属していた事務所のマネージャーより中野サンプラザでのロックイベントに招かれる。そのことがきっかけとなり、かつては雑誌で眺めるだけだった、スタープレイヤーたちと次々に共演し、夢を実現する。
- この頃、次々と音楽学校の講師のオファーがあり、「洋楽、しかもロックしか教えたくない」というこちらの要望を無条件に飲んでくれたYAMAHA音楽院で週に1度だけ教えることになる。
- YAMAHA音楽院で教えるうち、「人にものを教える」ということが、なぜか異様に向いているということに気がつく。さらにANミュージック京都のボーカル講師としても招かれるようになる。
- 音楽教育の現場を垣間見るうちに、世のボイストレーナーといわれている人のレベルの低さに驚愕。低レベルのボイトレに時間とお金を無駄にするだけの若者たちに心から同情し、自分は何年も何年もかかってしまったからこそ、この子たちの時間やお金を少しでも節約してあげることが、あたしのミッションなのでは、と感じ始める。
本を書くことを決意。日々ネタをためはじめる。運良く、リットーミュージックからボーカル本のオファーが舞い込み、2004年『これなら歌える!ボーカリストのためのマジカルトレーニングブック』を出版。
- 自宅を新築するにあたり、レッスンスペースを確保。これを機に、「マジカルトレーニングラボ」と称して、自宅でアーティスト限定レッスンを始め、スタートと同時に口コミでアーティストたちが集まるようになる。
- 2009年、ビジネスパーソン向けのボイストレーニングを開始。これまでの体験を踏まえ、「日本のボイトレのスタンダードを作ること」を目標に据える。
かなりまとめたつもりですが、お聞きした一つひとつのトピックのいずれもが、MISUMIさんの“今”を決定づける上で欠かせないものばかりで、かなり長くなってしまいました。
人生には無駄はない、とはよく言われることですが、こうして振り返ってみると本当にその通りだと感じます。
知名度不足を補うために
先のエピソードを読むと、最初はビジネスパーソンではなくアーティスト限定でスタートさせていることがわかります。スタンダードを作るのに一般人ではなくプロフェッショナルであるアーティスト限定で始めたのはなぜか。
ここに、MISUMIさんの戦略がありました。最初から当初の目標に沿った活動を始めても、知名度が低いために集客で苦労することが目に見えていたのです。そこで、まずはターゲットをプロフェッショナルに絞り、「有名アーティストのボイストレーニングを担当している」という実績を積み上げることから始めたわけです。
最初にターゲットを絞り込むことは、スタートアップ時のリソースの限られた中ではとても有効な戦略であることがわかります。
「ボイトレ? 何の役に立つの?」
とはいえ、実績を積み上げたからといってすぐにビジネスパーソン向けのボイストレーニングが軌道に乗ったわけではありません。
MISUMIさんが初めにやったことは、テストマーケティングでした。といっても、大げさなものではなく、会社勤めの知り合いたちに「ボイストレーニングって受けてみたい?」と問いかけてみます。
返ってきたのは「それ、何の役に立つの?」「オレたちの仕事に関係あるの?」といったイマイチな反応。
そこでMISUMIさんは自らの体験をふまえてボイストレーニングによってどんな効果が得られるのか、そのメリットを説明します。
- どんなに大きな声を出してものどが枯れなくなる声の出し方が身につく
- 声の出し方に加えてプレゼンで人を引きつけるパフォーマンス力が高まる
- 人の感情を揺さぶる声が出せるようになる(人を動かすのは感情)
- 力強い声を出せることで、本能的に優位に立てるようになる
- 想いや考えが誤解されることなく、しっかり伝わるようになる
これが現在のビジネスパーソン向けのボイストレーニングメニューの出発点になりました。
必要な人に必要なタイミングで出会い続ける
MISUMIさんのこれまでの歩みを振り返ると、次の2つのことに気づきます。
- すぐに行動を起こす
- 行動を起こした先で必要な人に出会っている
2は結果であって自分ではコントロールできるものではありませんが、その原因は1です。つまり、結果を求めるなら、原因を作ればいい、というシンプルな原則が見て取れます。
こうして文章にしてしまうと当たり前のように感じられますが、実際に結果が見えない中で行動を続けるのは容易ではありません。
そんな不安を払いのける上で役に立つのが、冒頭で紹介した次の2つの言葉です。
- やりたいことがなくても、やめないことはある
- やめられないこと、それが才能
やりたいことが見つからなくても、自分でも気づかないところでやめずに続けているものがある。それを顕在化させることが才能の発露につながる、というわけです。
MISUMIさんは、気持ちいいくらいに音楽まっしぐらですが、だからこそ不安に負けることなく行動を起こし続けることができているのでしょう。
最後に
個人的にとても印象に残ったMISUMIさんの言葉。
多くの人はデザインされた通りにカラダを使っていない。ボイストレーニングは、特別なテクニックではなく、本来備わっているチカラを引き出すためのもの。デザインされた通りにカラダを使うだけで良い。つまり、本来のカラダの使い方を思い出すだけ。
正しい知識を積み上げていくのではなく、いつの間にか身にまとってしまった間違った知識を取り去っていくだけ、ということですね。
自分の声に自信の持てない人、プレゼンテーションが苦手な人はもちろん、自分のやりたいことが見つからなくて悩んでいる、という人にとってもMISUMIさんの生き方、あり方は参考になるはずです。
詳しくは:
- HP:MAGICAL TRAINING LAB.
- Blog:「声出していこうっ!」
- Twitter:@MISUMIvox