多くの人にとってはどうということもない記事かもしれませんが、今週号の『ニューズ・ウィーク』(日本語版)の記事、「秩序が安定を導くという幻想」は、私にとってはいささかショックでした。
私は結構、「片付け魔」でして、かつて妹から、「引き出しまで整理してあるあんたみたいな男とは、絶対につきあえない」と言い放たれたことがあります。私からしても、妹とつきあうなど、地上から他の女性が一切消えてしまってもごめんですが。
そういう「整理好き」の私の部屋は、同年代の男性諸氏に比較すれば、やはり「秩序だって」います。
それに対して、『ニューズ・ウィーク』の記事には次のようにあります。
一般に人間の脳は、きれいに整理され、秩序だった状態より、少し乱雑な方がよく働くようだ。
この記事には、全面的に賛同するのは少し難しく、加えて、雑音から始まり、乱雑なオフィス、乱雑なキッチンを擁護したかと思うと、「秩序への過剰な努力が生むテロリズム」といった方向に、話が広がってしまっていて、説得力という意味で今ひとつなのですが、それでも考えさせられます。
と言うのもたしかに、部屋にせよPCにせよ、「一定の秩序」を保ち続けるのには、相応のエネルギーを費やしてやる必要があり、誰もがそうした方がよい結果が得られるかどうかは、検証が難しいと思うからです。
さらに、これは時に感じることですが、「非常に整理された状態」には、なにか物寂しいところがあります。私の部屋はたしかに、常にいくぶんもの寂しい雰囲気があります。「乱雑さ」にはなにか、温かみのようなものがあります。
この「物寂しさ」は、仕事に取りかかる上で、面倒な事態を引き起こすことがあります。たとえば、非常に整理された「計画」を見ると、非常に物静かな雰囲気に包まれていて、取りかかる気持ちに水を差します。多少とも乱雑なタスク管理状態は、タスクを処理し漏らす危険を抱えますが、やる気に火をつける上では、有効という気もします。
私自身は、乱雑な部屋や状態が、結局のところ、どうしても好きにはなれません。だから、タスクや部屋が、致命的とも言えるほど「乱雑」になったことは、ないのです。そうすると、私自身では、「乱雑さ」と「整頓された状態」のどちらが好ましいか、一度も比較検証できていないことになります。
同時に、たいていの「乱雑な状態」で生きている人というのは、「秩序だった状態」を維持できないような気がします。となると、「乱雑」と「整頓」のどちらがいいかは、やはり、その人たち自身の中では、比較できないことになるでしょう。
「乱雑な状態」の良さとは何でしょう? たとえば私は、かつては冬スキーによく出かけました。その折によく感じたこととして、「整然と秩序だったスキー場」(たとえば苗場スキー場)はしばしばどうもあまり楽しめず、「やや乱雑なスキー場」(たとえば石打丸山スキー場)の方が遊んでいて楽しい思いができた、ということがあります。
実際には、リフトなどの設備も充実していて、コースの難易度も高い「整然としたスキー場」へ行きたいので、結果としては、そちらの方によく出かけます。それでも、たまに「雑然としたスキー場」に出かけると、リフトの位置も意味不明、コースも何となくできたようなコースに充ち満ちていて、食堂もカレー屋さんとラーメン屋さんが冗長に軒を連ねているような、そんなスキー場なのですが、そちらの方が「楽しい」のです。
ノイズの効用は、それを活用するのが難しいものです。意図的に活用しがたいからこそ、「乱雑」なのですし。その上私は、「乱雑」に放置しておくことに対して、臆病になっています。それでも、「ノイズの効用」を活かすような考え方も、知っていきたいとは思います。(単純に欲張りだという気もします)。
ブリティッシュコロンビア大学の実験によれば、人間はランダムノイズに囲まれていると、画像や音の認識能力が向上する。この種の雑音を聞きながら車を運転すると、突進してくる別の車を早く察知できるという(この研究にはトヨタが資金を提供している)。
「ノイズの強度が増せば、認識対象に焦点を移す能力も上がる」と、研究を率いる同大の認識神経科学者、ローレンス・ワードは言う。
『ニューズ・ウィーク』からの引用です。なるほど〜とうなったわけではありません。ただ、ノイジーな状況に、多少おうようであるのもよいかもしれない、とは思い始めました。