エネルギッシュで勤勉なギボンのように、休みなく仕事をし、自己不信や自信喪失とは無縁で、我々凡人をたじろがせる天才がいるいっぽうで、ウィリアム・ジェイムズやフランツ・カフカのように、すばらしい才能がありながら時間を浪費した人々、インスピレーションが湧くのをひたすら待って、苦しい閉塞状態やスランプを経験し、疑念と不安に苛まれた人々もいる。
じっさいには、この本に登場する人々のほとんどはその中間──日々仕事に励みながら、その進み具合に完全に自信をもっているわけではなく、一日休むだけでも、仕事の流れが途切れるのではないかと、つねに不安に思っている。
そして、だれもが時間をやりくりして仕事をやり遂げている。
ただし、そのために生活をどのように組み立てているかには、数えきれないバリエーションがある。
タスクシュートは依然として大量の誤解にまみれていますが、なかでも固く信じられているのが、「自分の理想的な時間の使い方」を「可視化」して、その実現をサポートするのがタスクシュート、という思い込みです。
これをぜひ払拭していただきたいのです。
ところがこれが難しいのです。
ほぼ100%正しくないが、100%間違っているとも言えない
なぜなら、「自分の理想的な時間の使い方を「見える化」し、その実現をサポートするツール」という思い込みは、ほぼ100%正しくないのですが、しかし100%間違っているとも言えないからです。
確かに非常に分かりにくい、非常に曖昧模糊とした難点があるのです。
上記『天才たちの日課』に登場する人々は、間違いなく「天才」といっていい人ばかりです。
私などには、想像するのも困難なほどの偉人たちばかりです。
しかしそういう天才的な彼らであっても「その進み具合に完全に自信をもっているわけではない」のです。
「一日休むだけでも、仕事の流れが途切れるのではないかと、つねに不安に思っている」のです。
「理想的な時間の使い方」は必須ではない
偉人や天才というのはどうしても「休みなく仕事をし、自己不信や自信喪失とは無縁で、我々凡人をたじろがせる」というイメージが強すぎるのです。
24時間を完全に使い切り、ムダなことなどまったくしそうもない。
「ただでさえ足りない24時間」(ここをカギ括弧にしたのは、これがウソだということを示すためです)をムダに使うなどということはあり得ない。
そんなわけがないのです。
「休みなく仕事をし、自己不信や自信喪失とは無縁で、我々凡人をたじろがせる」人も、中にはいたようですが、大半の天才はそうではありません。
ならばいったい「24時間ではぜんぜん足りない」から、「時間をムダなく理想的に使おう」としたときの、いわゆる「理想的な時間の使い方」はなにを生み出すのでしょうか?
「天才」がそうした時間の使い方をしていなかったとするならば、ムダのない理想的な時間の使い方など、天才も偉大な作品も生み出さないでしょう。
「理想的な時間の使い方」は少なくとも必須でないし、そうしたからと言って偉人にも天才にもなれはしない。
ただ「(自分が何ゆえか思い描くところの)理想的な時間の使い方」ができるというだけで。
24時間では足りない?
私はタスクシュートが「24時間で十分だ」ということを示すためのツールであることをお伝えしようとしてきました。
それが伝わらないのですが、なぜ伝わらないかというと、「24時間では足りない」という気持ちがあまりにも強すぎるのです。
やりたいことが多すぎる。
しかもそのやりたいという気持ちも強すぎる。
「やらずに死ねるか!」と思い込んでいる。
実際にはそうではないのに。
そしてもっと極端なのが「やるべきこと」です。
やるべきことが多すぎる。
しかもやるべきだという気持ちが強すぎる。
やらなければ大変なことになる!とみんな思い込んでいるのです。
実際には何も起こりはしないのに。
このことを述べているとしばしば思い出してしまうのが「私がいなければこの組織はダメになる!」という思い込みです。
そう思って必死にあれこれ背負い込んで、多くの場合は心身を壊して退社する。
すると、「なぜか」会社はウンともスンとも言わずに立っている。
「私がいなければこの組織はダメになる!」はずではなかったのか(「この私」がいなくなっているというのに、なぜこの組織は平気でいやがるのか!?)。
同じではないのですが、「やらずに死ねない!」にも「やらねばならない!」にも、よく似た印象があります。
24時間で十分です。
その中に収まるやりたいことをやれば、十分に満足できますし、その中に収まるやるべきことをやれば、身の回りのことは片が付きます。
やることを24時間で十分なくらいまで、厳選しましょう。
タスクシュートいうのは、その「厳選」をサポートするためのツールなのです。