どんなに強い願望を抱いていてもそれと意志力は別のこと



『マインド・タイム』(岩波書店)という本の中で、著者のベンジャミン・リベットが発表したことは、衝撃的でした。

今ではその衝撃も一般には忘れ去られつつありますが。

彼の発表した内容というのは

というものです。

この件、こういうことについてあまり関心がない方には、どこが衝撃的であるか、非常にわかりにくいようです。

「それが?」などと問い返され、それはそれで衝撃を受けることもあります。

何が「衝撃的」だったのか?

私たちの社会では一般に、意識的に選択できないことがらについて、責任を問えないという考え方をするのが普通です。

スズメバチがあどけない少女を刺し殺してしまったとしても、私たちはスズメバチを裁判にかけたり、その倫理的姿勢を問いただそうとはしません。スズメバチを殺しはするでしょうが。

それと同じように、夢遊病のような状態にある人が万引きをした時、意識的に盗みを働いたのと同罪だとは思わないのが一般的です。

けれども、「自覚的に手を挙げよう」とすることに無意識の働きが先行してしまうのだとすると、どうして意識的に行動をした方が、無意識の犯罪よりも「より責任が重い」と言えるのでしょう。

というような意味で、リベットの実験結果は「衝撃的」でした。

自覚とは何のためにあるのか?

私たちの感覚の中では、なにかを「自覚的にしよう」とした「後」で、行為のための神経信号が動き出すべきなのです。

「先」に信号が走ってから「自覚が形成される」のだとすれば、自覚というのは何のためにあるのでしょう?

この実験結果を受け、「まったく何の意味もない。意識はただ、自分がやる行動を本当の意味ではまるでコントロールできず、ただそれを眺めているだけなのだ」と主張する哲学者や神経科学者も、登場したほどです。

けれどもこの主張はあまりにも私たちの常識感覚とはかけ離れているためか、広く受け入れられたわけではありません。

こんな実験があります。

プレゼンテーションのスライドを「1つ進める」ボタンを持たせた被験者の脳の「準備電位」をモニタします。

つまり、「ボタンを押そう」とする「前」に、その信号を検出することができるので、「無意識の信号」を検出したら、間をおかずに勝手にスライドを進めてしまうのです。

すると、ボタンを持った被験者はかなり驚きます。自分の脳の中身が読み取られているような感じがするそうなのです。まさに自分が今「ボタンを押してスライドを進めよう」とする「直前に」スライドが進んでしまうからです。

この「驚き」について考えてみると、行動を自覚する意味がまったくないとは思いにくくなります。

タスク管理において、なによりも「実行記録」を重視すべき理由

「自由意志についての哲学」めいた話を長々と書いてきましたが、自由意志があろうとなかろうと、どうも私たちが「何かをしようと思って、なにかをする」時というのは、「そのような意識を形成してから行動を起こす」、というプログラムが無意識によってセットされてしまうようなのです。意識する前に。

このことを考えるなら、「意志力の強さ」という言葉はかなり不確かな表現と言わざるを得ません。「意志力の強さ」という言い方には、ある種の困難なタスクを実行できるかどうか、自分で決められるというニュアンスがあります。

しかし、そんなわけではないらしいのです。

ただ、たとえなにか常識感覚に反するにしても、「自分が意識的になにそれをした」と言えるような条件というのはあるようです。それはおおまかに

という流れになっているようなのです。

逆に言えば、キッカケが無意識だろうと意識だろうと、「実行意図の自覚」と「行為の実行」がそろわなければ、それは「意志の発露」とは言えない。もっと簡単に言うと、どれほど「今宿題をやろうと思っていたのに〜!!!」といった「願望」が強かった(強く自覚していた)としても、それをもって「意志」とは言えないことになります。

なぜならば、その「宿題をしようと思っていた」という気持ちの前に「準備電位」があったかどうか、大変疑わしいからです。

人は一日中思考したあげく、結局行為に至らないこともあり得ます。
この場合、自発的な行為は存在しません。

『マインド・タイム』(岩波書店)

これは、リベットの指摘です。

私が、タスク管理という、「意志の管理」と見えるもののなかで、なによりも「実行記録」を重視するべきだというのは、上述のリベットの実験と指摘から、いっそう確実なことだと考えます。

結局、「意志」は実行された記録にしか、反映されておらず、「願望」や「意志力」をどんなに積み上げてみたとしても、それは行為に至らしめる無意識のキッカケが先行しうるかどうか、分からない。

言い換えれば、実行に至るに足るモノか、不明なのです。


▼編集後記:




11月17日 ライフハック勉強会02@渋谷編(東京都)

今、私はこういうことに興味を持っています。「やる気」ということとはまた別に、「無意識」が自分を半分以上動かしているのなら、それでもタスク管理をする意味があるのでしょうか?

というよりも、タスク管理を私に「させている無意識」とは何なのでしょう?

私はむしろ、だからこそライフハックを少し徹底してみたい、と改めて思うようになりました。
たとえば部屋の風景、あるいはEvernoteの中身は、もちろん意識に作用もするけれど、無意識にも影響を与えます。

気づかぬうちにこうむる影響のせいで、タスク管理がしたくなるような力が働くのかもしれません。
それはどういうものだとハッキリ言える理由などありませんが、どちらかというと、雑然としたところを整然とさせたいという欲求が関係してくるように、思えるのです。


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