「ヤマアラシのジレンマ」(Hedgehog’s dilemma、原義は「ハリネズミのジレンマ」)とは「自己の自立」と「相手との一体感」という2つの欲求によるジレンマ。
寒空にいる2匹のヤマアラシがお互いに身を寄せ合って暖め合いたいが、針が刺さるので近づけないという、ドイツの哲学者、ショーペンハウアーの寓話に由来する。フロイトが論じ、精神分析家のベラック(Bellak、1916-2002)が名付けた。
原文では精神的に卓越した人物ほど非社交的で、内面が空虚な凡夫はその逆であるという趣旨である。
但し、心理学的には、上述の否定的な意味と「紆余曲折の末、両者にとってちょうど良い距離に気付く」という肯定的な意味として使われることもあり、両義的な用例が許されている点に注意が必要である。
なお、実際のヤマアラシは針のない頭部を寄せ合って体温を保ったり、睡眠をとったりしている。
先日セミナーのサポートで出かけていて、ふとその理由の一端に触れました。自分は「照れすぎる」のではないかと。
「照れる」とはどういうことか?
「照れる」というのはどういうことでしょう。照れるので思い出すのがアメリカ留学です。自分は心理学部にいたのでよく「ロール・プレイ」というのをやらされました。あれが照れるのです。
あれに照れるのは決して日本人ばかりではなく、アメリカ人にしても、多少は照れます。あの変なはにかみ笑いがどうしても起こる。
笑うと言っても決して、お笑い番組を見ていて爆笑するといった風に、ゲラゲラ笑い出す人はいません。あの変な、忍び笑いをこらえきれないような、あの調子になるわけです。
あれを続けていると、きっとかなり疲れます。人間関係における疲れには、そういうところがある気がします。
- 役割を、うまく演じきれない。
- そもそも役割に、入りきれない。
「役割を担わせてくれ」
もちろんよく「人間社会においては仮面をつけて、役割を演じさせられるから、たいへんだ」という言い方はなされるのですが、それでも、まったく役にはまりきってしまっていれば、疲れるかもしれませんが変な疲れ方はしないと思うのです。とことんはいりきっていると、そもそも「役を演じている」という感覚もなくなるものです。
そうではなくて、中途半端な状態だと、疲れるのです。「父親という役」にしても「セミナー講師という役」にしてもあるいは「セミナー受講生という役」にしても。
しかし考えてみると、役というのは役でしかないのだから、中途半端な状態であるのが当たり前という気もします。
だから「照れる」わけです。「ふりをするけどうまくいかない」のですから。しかし「私はまさしく父親であって、それ以外の何ものでもない」人などいません。
ある程度「ふりをしている」のは当然で、完全に一人っきりで、完全にリラックスしていて、完全に役割から解放されている状態で、ずっと過ごすということはできないものです。
それにそういう人が「役割を欲しがって寂しがっている」というケースもままあります。彼女が欲しいだとか、結婚したいだとか、子どもがほしいというのは結局「役割を担わせてくれ」というのと同じです。
ということは、ヤマアラシのジレンマと同じことになるのです。
- 役を演じるのはそもそも難しい。
- しかし役がなければ淋しくなる。
だからといってほどよく距離をとって、中途半端に役をこなそうとしていると、かなり疲れがたまってくるものです。
願わくば、演じやすい役を中心にして生きていきたいものです。