亭主関白といわれる人の家庭が、実際にどのように運営されているか、日本人ならば誰でもよく知っていることであろう。
日本社会を「タテ社会」と特徴付けているものの、中根さんが言っているのは「上の者には絶対服従の社会こそ日本的である」と言っているのではまったくない。「タテ」はきわめて儀礼的なものであって、その機能は通常「対外的な意味」しかもたないのである。
以前もブログで書いたことだが「序列は身分ではない」。「子どものケンカに親が口を出す」のは日本では「恥ずかしいこと」であり、親と子という「タテの関係」は、各家庭の「ウチ」でしか通用しない。この関係を拡大させて「自分はオトナだからよその子どもにもものを言う権利がある」とばかりに行動すると、一定の限度までは許容(時にその「教育熱心」ぶりが感心)されるにしても、ついでに苦笑くらいはされることが多い。
しかも許容されるのは一定の限度までで、それを超えればこう言われる。「アリガタイことですが、ウチにはウチのやり方がありますんで」。日本社会で「ヨソの者」が「ウチ」を乗り越えていくのはほとんどタブーである。「ウチ」の内部で完結しているかぎり、「お子様」が王様だったり、「ヨメ」が「主人」をドレイのように扱ったとしても、それはその家の「家風」というものである。
ただ少なくとも「家のソト」では、「タクでは私はなんでも主人の言うがままですの」とでも言っておいて間違いはない。たとえ実体は「主人」=ドレイだったとしてもである。つまりこれが「儀礼的なタテ社会」という意味なのである。
タテマエと実体がまったく同じであったとしたら、下位の者は窒息し、その集団は陰湿となり、機能は低下する。タテが健全に作用し、集団が活発であるためには、上下関係を無視できる人間関係が存在し、一定の自然な調整が保たれていることが必要である。
ウチがソトに漏れ出ることが「恥」
つまり冒頭で述べたように「亭主関白といわれる人の家庭が、実際にどのように運営されているか」など、「ソトの者」には知るよしもないのだ。実体の伴った意味のある情報は「ウチ」にとどめおかれることがふつうである。「タクでは私はなんでも主人の言うがままですの」というのは、実体がそれと乖離しているならば、情報価値ゼロだ。日本において、親しくない者同士のやりとりというのは、往々にしてこのように無内容を極めたものになりがちである。
とは言え内容のあることは一切出せないとしても、完全に沈黙を守るわけにはいかない。そこで、親しくない者同士が意味のある情報交換をせず、しかし会話はするという状態を維持するために、社会的な方法が打ち出されている。それが儀礼的なやりとりである。日本人は知らない人とはコミュニケーションを個人的にとることなく、もっぱら儀礼的な決まり文句をかわすことですませる能力を磨いてきているわけである。
これが上手にできないということは、日本では「恥ずかしい」ことだとみなされてきた。どんな「ウチ」にも「ウチのやり方」(社風とか家風)があるのは当然である。それはそれでけっこうである。しかし「ウチのやり方」を(親しくもないのに)ソトに押しつけてはいけないし、「ウチでのやりとり」がヨソの人に丸見えというのは「みっともない」ことである。
ちなみに「ソト」には普遍の価値観だとか哲学だとかいった「客観的基準」があるわけではない。今のような時代に「亭主関白」であることをおおっぴらにするのも、それはそれで十分「みっともない」ことであろう。それが「家風」である限り、ソトから口出しすることではないが、やはり「家風」は「ウチにとどめておくべきやり方」なのである。要するに実体がどういうものであろうと、ウチにとどめておくべき(隠しておくべき)実体をソトにさらけ出すのは極力控えるべきなのであって、何らかのはずみでそれに失敗すると「どうもあちらのお宅では・・・」とかなんとか言われることになる。
こう考えると「恥」というのは、ウチとソトとが交錯した際に「見られる(目撃される)」現象だと思われる。そして「恥ずかしい」というのは「ウチの者」が感じる感情か、もしくは「ウチの者として感じるべき感情」だということになるはずだ。つまり「秘すべきウチの実体がソトの漏れて恥ずかしい」か、もしくは「秘すべきだったウチの実体を外に出してしまったことを恥じ入るべきだ」とウチの者がウチの者を非難するわけである。
ライフハックとしての「旅」
したがって日本人として人間関係にストレスを感じやすい状況というのは、主に次の3点あたりになる。
- 1.ウチの中でソト向けの価値観が陰湿かつ徹底して適用される
- 2.ウチとソトとの区別がはっきりしにくい環境である
- 3.ウチの恥をソトに漏らしてはならないというウチなる戒律が心理的に食い込んでくる
他にもこのバリエーションが考えられるが、上記3箇条は典型的であり、いずれもきわめて胃に悪い。1は一種のいじめである。日本の文化としてソトからウチの問題に口出しにくいのをいいことに、クラブ活動や会社などで先輩が後輩を虐待したり、親が子どもをいびったりして、しかも「これがウチのやり方だ」と言い切ってしまう。「新入」社員や「新入」部員がターゲットになりやすいのは、「場に新しく入ってきたメンバー」だからである。
2は、外国の中の日本人コミュニティにいたことがあるならわかる、独特の人間関係の難しさである。そういうところの日本人コミュニティは「垣根」があるわけではないため、どこから「ウチ」が始まっているのかよくわからない。しかし、ある外国の同一地域に永く暮らす日本人は、同じ日本人のため「私はソトですから関わりありません」と言いきるのも難しかったりする。下手をするとそういう態度を示した「カド」で、「日本人として恥だ」などと意味不明の非難を受けかねない。
(ちょっと蛇足すれば、日本人は英語を喋ることを日本人に聞かれることを恐れる。日本人にとって「英語を喋る」とはよほどのレベルに達しない限り「ウチに秘めておくべき演技力」のようなものだからである。大した英語力(演技力)もないくせに「ソトで自分の英語力を披瀝する」ようなまねをするのは、それこそ「恥さらし」と言われる。面白いことに「その英語でもアメリカ人に通じる」というのは認められず「通じなくても日本人を感心させられる発音」の方が「恥」ではない)。
3は非常に厳格な家庭で育てられた方にときどき見られる現象で、自分のあらゆる振る舞いが「ウチの恥」につながってしまうと恐れてしまう。「回避性」の性格の特徴がしばしば見られる。
しかし昔から日本人は、上記3点のいずれの問題を抱えていたとしても、ストレスを緩和する方法を考案してきた。それは「旅に出る」という方法である。「旅の恥はかきすて」という。これはよく日本人の公共性のなさにつながると指摘されることわざで、そういう面もあると思うが、「恥をかく心配がない」旅人の心理を説明している言葉だとも言える。旅行中の行動を「ウチの者に見とがめられる」心配はきわめて少なくなるからである。