2013年の最後のこの記事は、断定的な調子で書くことにする。
来春早々に、セミナーをする。テーマは「マインドマップでの洗い出し」。しかし私は洗い出しはたまにしかしないし、マインドマップはほとんど使わない。だからこちらの方面については、共催のやまもとさをんさんに一任することにしている。
私が昔っから気にしているのは、洗い出したアイデアだのタスクだのを、いっこうに私がしようとしないことだ。洗い出す私と、実行する私は別人に近い。これを私は「別人問題」と勝手に名づけ、どうやって統合するかで数年以上悩んできた。
洗い出したリストをGTD式に振り分けたり、OmniFocusで懸命に分類・整理したり、Evernoteに溜めてタグづけしたり、京大式カードに書き出したり、頻繁にiPhoneでリマインドさせたり、家族に喋ってみたり、「超」整理手帳で長期分類したり、習慣化トレーニングで相乗りさせてみたり、フランクリンプランナーで整理してみたり(実は買っていたのだ!)とにかく考えつくかぎりのことをやってみた。
もちろんTaskChuteにぶち込んでみたりもした。
結論として私が得たことは、「洗い出したリスト」と「タスクリスト」を統合しようとしないこと、である。なぜなら「洗い出したときの私」と「タスクを実行するときの私」は重要だと思うことが全然違うからだ。
洗い出すときの私は、実行に関しては無責任だ。「どうせやるのは未来のあいつだ」。ダイエット、貯金、運動、語学学習、iPhoneの設定、プログラミングの勉強。何でもかんでも書いとけばいい。「どうせ自分がやるわけじゃない」。
一方「実行時の私」が気にしているのは、そういうモデルみたいな人間が毎日していると語り継がれていること、ではない。もう少し寝ていたいとか、パンをもう一切れ食べたいとか、マー君が大リーグへ行ったとか、娘がウンコを漏らしそうだとか言っているとか、電車があと1分で発車するといったことばかりである。
プログラミングの勉強なんて、この「日々の生活臭あふれるくりかえし行動」のどこにも入ってくる余地がない。
「ブログを書く」のがそんなに大切なら、それと同じくらいに大切な「リラックスできて英気を養え、しかも教養まで身につく有意義なテレビ視聴」を泣く泣く諦める必要があるのです。
このエントリで私が言いたかったのは、つまりやる前からムダだとわかっている行動は実際とることがないので「無駄な時間を省いて有意義なことをする」というのは、現実には無理であるということなのである。
「やっている最中の私」はどういう意見を持っているのか
洗い出しとレビューといえばGTDだが、結局これは二人の別人の意見を調整する関係にある。やろうとした自分と、やった後で振り返る自分とは、当然言い分が違う。できるだろうとおもっていたことができなかった。やれば楽しいだろうと思っていたことが全然そうじゃなかった。アマゾンのレビューを参考に本を読むようなもので、レビューを書いている人と、読書する人は別人だから、ある程度の誤解は避けようがない。
だが洗い出しとレビューの間には、何か欠落した気分があると、私はずっと気になっていた。PDCAも一緒だが、未来を見ている計画時の自己と、過去を見ている反省時の自己の間には、現在進行形で苦しんだ実行時の自己がいたはずだ。
ダイエット本というのはほぼ100%が、やせた人のレビューになっている。苦しんだとか、意志の力はあてにならないとか、いろんなことが書いてあって、そこにウソはないのだろうが、記憶は歪曲されるものだ。
一方ダイエット本の読者は未来に思いをはせる。ダイエット中の苦痛は通常は少なめに見積もられているし「今度こそやれそうだ」と思うのでなければ、本を読むのをやめてしまうはずだ。つまり期待が多めになっている。
しかし実行時の言い分は、すくい取りにくいもののせいか、刹那的すぎて役に立たないと思われがちなのか、とても少ない。ダイエットに成功した人(この人は過去にダイエットをしたのである)などは「意志の力などアテにならない」と平気で言い放つ。
しかし「意志力を発揮した」のは「ダイエットを実行したときの自分」なのだ。つまり「あいつのがんばりは取るに足らなかった」と言って小馬鹿にしている「過去の自分」の(意識的な)努力のおかげで、未来の誰それは綺麗になったり本を書いたりしていられるのである。
われわれは、未来の自分をわが子のごとく扱い、日々多くの時間をかけて、その子が幸せになれるあすを築こうとする。退職後のゴルフ三昧のために月給からこつこつと貯金し、心臓発作や歯肉移植という事態を招かないためにジョギングやデンタルフロスを習慣にし、かわいい孫を膝の上で遊ばせる日を夢見て子どものオムツを替え、お気に入りの絵本をいやというほど繰り返し読まされてもがまんする。
とにかく何かを望むとき、自分がこれを手に入れれば、今から一秒後、一分後、一日後、一〇年後に、自分と同じ指紋を持った人間が、手渡された世界を喜んで受け取るはずだと考えている。未来のそいつは、賢い投資や控えめな食生活の成果を手にして、こちらの払った犠牲に敬意を表することだろう。
ほんとうに? いや、期待しないほうがいい。わが子と同じで、時間軸上の後継者というやつはなかなか恩知らずだ。気に入りそうなものを汗水たらして手渡してやっても、仕事は辞めるわ、髪は伸ばすわ、サンフランシスコへ引っ越すわ、そこから出ていくわで、しまいには、こんなものを気に入るとおもうなんてどうかしているとうらまれる。(p12)
幸せはいつもちょっと先にある―期待と妄想の心理学 ダニエル ギルバート Daniel Gilbert 早川書房 2007-02
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これは本当だと思う。
しかし、やはり途中に何かがあったのだ。サンフランシスコに引っ越したとき、そしてそこから出ていったとき。途中で何かが起きた。「心境の変化」と言われるものだが、そのスナップショットはたいてい欠落している。「心境の変化があったのだ」というのは、始点と終点をつなぐ上での推論にすぎない。現実に描写すべき「変化」とは、具体的になんなのだ。何月何日の何時何分に、何についてどう思っていたものがどう変化したのか?
作業に手がけ、作業を実行し、わずかばかりの成果を蓄積しつつあるときというのは、じわりとした心理的な移行の感覚をともなう。私の場合はそうである。このエントリは長くなってきたが、書き出す前と今この文字を書いているときの心境はずいぶん変わった。今からそのメモを残すためにタスクシュートに戻る。
で、今タスクシュートから帰ってきた。この間のメモに相当するものを蓄積していくことをおすすめしたい。そうすれば「どうせやるのは未来のあいつだ」と「なんで過去のあいつは俺がこんなことをやるなんて思ったりしたんだ、ばかばかしい」とのせめぎ合いに対する光明を見いだせるかも知れない。