リソース配分のウソ


「私にはとてもこの子(障害児)に責任がもてません」と言い切る教師の方が、あとあとその子についてよく面倒を見られる傾向がある、と言えそうです。

この言葉は、その時点での彼らの本音であり、ある意味で事実にもとづいています。

しかし、そこで悩み、苦しみ、どうしたらいいか考えあぐねていかれるとき、はじめて「一人の障害児を捨てて、他の三九人を守る」というのは、結局その三九人の一人ひとりも本当には大切にしていないことだ、ということに気づいていかれるのです。

『少年期の心―精神療法を通してみた影』

タスクシュートでもまったく同じようなことが言えます。

ひとつひとつのタスクにかかるであろう手間と時間を記録からきちんと割り出し、1日の中で「やること、やりたいこと、やらねばならないこと」のすべてをリストアップしてみると、24時間にはとうてい収まらない事態が頻発します。

とくに、

ようなタスクには誰もが尻込みします。

「1日」という「クラス運営」を「任されている人」は、ちょうどこの「一人の障害児を捨てて、他の三九人を守る」という先生と同じように、「この手間のかかるたったひとつのタスクを先に送って、他の50のタスクを完遂する方を選ぶ!」と考えるわけです。

けれどもこの発想をもつ人もやがては

いくしかありません。

きれいごとのようにも思えるかもしれません。

でも「39人」全体のために「誰かひとり」の面倒を避けたいということは、それがどのひとりであっても同じ意味になります。

バランスよく配分できる?

とはいえタスク管理であれば、ここまでシリアスに考える必要はありません。

「1タスク」の面倒を避けたとしても、その仕事が進まないだけですむと言えば済みます。

ただ、同じ構造である以上、同じ価値観を反映している事実については意識してみる価値があります。

1つのタスクへの手間を省くことで、他のすべてのタスクを守るという発想は、たしかに、他のどのタスクも本当には大切にしていないということなのです。

「50の仕事の総和」というタスクはありません

したがって本当は、50のタスクを総和したタスクの価値、という価値もないはずです。

仕事の価値はひとつひとつのタスクの中にだけあるのだし、まして仕事の成果を受け取る人がある以上、それらの価値を比較するのは微妙な話です。

タスクの価値に優劣をつけるということは、他人の価値に優劣をつけるという意味になってしまうからです。

もしも「仕事の成果」を受け取るのが自分であるなら、自分の価値をわざわざ貶めるような話になります。

急ぎの用事があるとしても、まだ先にやればいいタスクすら先延ばしにしてはならない、といいたいのではありません。

そのように受け取らないでください。

一日全体を見て、バランスよく気力体力なり時間を配分するという、広く受け入れられているやり方には、大いに疑問の余地があるといいたいのです。

▼編集後記:



「家族全員がたいへんの渦」に巻き込まれ、逃れ出ることができないのが、ある意味ではいちばんたいへんなのかもしれません。
 
つまり、
 
エンドレスにたいへん
エンドレスだからたいへん
 
なのです。
 


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