たとえば、「29インチディスプレイのことをブログに書こう」と思いついて、ディスプレイ周辺を撮り始めるわけですが、すると普段は風景に溶け込んで気にも留めなかったあれこれがファインダー越しに改めて見てみると「うわ、これ片づけなきゃ!」となるのです。
↓たとえば、以下の記事を書くにあたって撮影する必要があったので机の上の整理がはかどりました…
» 「机上台」の下にキーボードを格納することでデスクワークのスペースを確保する
写真で見ると違って見える
日々撮影する写真はもれなくGoogleフォトにアップロードしています。
» 10日ごとに撮った写真をGoogleフォトでじっくりと見返すようにしている理由
日々、iPhoneやデジカメで写真を撮っています。食べたものや目にした美しい風景、珍しい看板などなど、言葉で採れない対象を写真で獲っているわけです。撮った写真は10日ごとに直近10日分をじっくりと見返すようにしています。見返すことで、何を撮ればいいか、何は撮らなくてもいいかが自分なりに見えてくるからです。
毎日、前日に撮った写真を、ざーっとながらも目を通しています。「あぁ、そうそうこの風景が気になったっけ」とか「この店は今度行ってみたい」といったレビューになります。日記を読み返すより写真を繰っていくほうがスピーディーかつ情感豊かにふり返ることができます。
いずれも見慣れないもの、従って注意を引くものが中心です。
一方、何気なく撮った自室の写真も別の意味で注意を引くことがあります。普段見慣れているはずなのに、肉眼で見るのと写真で見るのとでは違って見えるからです。
おそらくモードが違うせいでしょうか。注目する、すなわち注意して目を向けるポイントが異なるのでしょう。
写真で見て気になったことがあれば、それを何とかしたいと思うようになります。行動を喚起するわけです。
とりあえず写真に撮っておく
どうにか片づけたいのだけど、どうすればいいのか方針が定まらないことがあります。
そんなときは、とりあえず片づけたい部分を写真に撮っておきます。
たとえば、以下はどう表現していいのか分かりませんが、自室における「ぐちゃっ」とした一角です(Evernoteより)。お恥ずかしい限りです…。
ガムテープ、マフラー的なもの、バスタオル、謎のノート類、何も支えることなく空しく屹立する漆黒のブックエンド、空のCDケース、ウェットティッシュ、などが無造作に置かれています。
「この一角を切り崩す」というコメントが添えられているとおり、何とかしたいと思って写真に収めたわけです。
その後、この写真をEvernoteで目にするたびに、自室に居なくても、むしろ居ないときこそ「そうか、自室はこんな風になっているのか…」と不思議な“再発見”をすることになります。
「それに引き替え、このカフェは何もなくて気持ちがいいなあ」と、そのギャップを如実に感じます。思い出したくないことを思い出すことになりますが、だからこそ次に進める、すなわち、行動を起こすトリガーになると考えています。
また、こういった写真は「どうにか片づけたい」というくくりで一箇所にまとめておくのがおすすめです。Evernoteをお使いでしたら、ノートブックなりタグなりを作るといいでしょう。
その上で、まとめた写真を繰っていくと、片づけのアイデアが浮かぶことがあります。普段は別々にしか目にしない光景を写真で「合成」しているので、普段とは違った発想が浮かぶからでしょう。
写真に撮ると名前を付けたくなる
ここまで書いてきて、ふと気づきました。「写真に撮る」とは「任意のサイズの矩形で現実を切り取る」ということです。
すると、そこに曲がりなりにも「作品」が生まれるのです。作品である限りは名前を付けたくなります。切り取ったものをそのほかの部分と区別したくなるからでしょう。
先ほども、無意識に、
自室における「ぐちゃっ」とした一角です
などと名付けている自分がいました。個展を開くことになったら、この写真は額縁に入れられて[自室における「ぐちゃっ」とした一角]というプレートが付けられることになるでしょう。
とにかく、目にしているだけでは過ぎ去っていくだけのところを、写真で切り出すことによって放っておけなくなり、名前を付けたくなり、折に触れて注意を引くようになる。
最初は何とも思わなかったのに、気づいたら恋に落ちていた、的な。
関連して、写真ではありませんが、『文章の書き方』という本に以下のような事例が紹介されていたのを思い出しました。
中央分離帯の植え込みでゴミを集めてみた。一平方メートルだけで、約5キロが集まった。内訳はジュース類の空き缶42個、カップラーメンの容器2個、プラスチック製の弁当箱8個、週刊誌3冊、バナナとミカンの皮2つずつ、清涼飲料水のビン2ホン、自動車用のヒューズ、汚れたちり紙、荷物の送り先の地図、メモ、吸い取った髪の毛やほこりが入った電気掃除機の袋が一つ・・・・
具体的なモノが示されることで中央分離帯のイメージがありありと浮かびます。仮に書き手の言葉で「中央分離帯にはゴミが多かった」とまとめられていたとしたら、書き手が目にした光景は文章からは伝わらないでしょう。
「ぐちゃっ」とした一角を目にして、「片づけなきゃ~」とまとめるだけではなかなか動き出せないところを、写真に撮ることで、文字通りイメージで訴えてくるようになります。
自分の中で特別な存在に近づくのです。