たとえば、スーパーのカゴにたくさんのビールが入っているとき。
- 他人のカゴだと、「この人はよほどビールが好きなんだな」と考える。
- しかし自分のカゴだと、「今日はホームパーティだから」と知っている。
電車の中で駅員さんに大声でしゃべっている人を見たとき。
- それが他人だと「横柄な人だ」などと考える。
- しかし自分だと、「この電車の音がうるさいから」と知っている。
つまり他人の行動においては、その人がそうしている事情が目に入りにくいので、どうしてもその人が自由意志でそうしていると思うわけです。
余談ながらトルストイは、権力の頂点に近づけば近づくほど、ますます自由がなくなっていくと指摘しましたが、トルストイは特別な想像力を持っていたからそういうことが解るのであって、私たちは普通、逆に考えてしまいます。
権力者や他人のことはともかく、この心理が、自分自身にもちゃんと働いていることについて、もっと注意したいところです。
未来の自分も自由ではない
私たちにとって未来の自分というのは、他人のようなものです。つまり“そいつ”は「自由だ」と思っています。
たとえば朝の自分には「時間がない!」ことがわかっていても、でも夕方の自分は自由だから「ちゃんと仕事をして、帰りに用事を済ませられるはずだ!」と思うわけです。
未来の自分のことは、コンテクストが見えなくなるのです。
現在の自分というのは、いつだってコンテクストでがんじがらめです。いろんな締め切りは迫っているし、時間はあまりないし、家族はうるさいことを言うし、肩は凝っている。だからほんのわずかなことしかやれなくても、まあしようがないと思える。
しかし、未来の自分は、その背景が見えない。せいぜい外を夕日が照らしているだろうというくらいしか見えてないので、自由に仕事をガンガンやれるはずだと思ってしまう。そうしないのは怠け者だからだ!などと。
現実はご覧の通り「遊び」になったわけですが、娘には、こんなに長い時間学校で過ごしたあとで、どういうコンテクストが自分をしばっているか、想像できないわけです。
まだ6歳ですからしようがないですが、20年以上生きている私たちは、自分が「自由時間に自由意志で動ける」などと夢想せずに、その時の状況でできることを少しは正確に予測できるようになりたいものです。
今できるレベルのことを、未来の時間にも。
私はこの本を通じて、とにかくこの「未来の自分のコンテクストが見えない」ことを切々と述べたかったのです。タスクシュートというのは、それを見える化する、最適のツールです。そして類似のツールはほとんど見あたりません。
単にタグや「コンテクスト」などの機能を使って、「そのタスクをできるのはどうした状況か?」を設定できればいいというわけではありません。「@東京駅」であれば「東京ばな奈」を買える、ということを明らかにできても、日常の役にはあまりたたないのです。
コンテクストを設定できるツールで設定する「コンテクスト」というのは、設定しないで済むタスクがあるかのようです。実際には、私たちはいつだって状況の奴隷に近いものであり、コンテクストから独立した自由気ままな自分などというのは、ほとんど幻想に近いものです。そんな時間帯でしかできないことは、半永久的にやれないでしょう。
常に万全ではありません。常に身体のどこかは不調でしょう。常に時間は足りません。常に何かが不足でしょう。つまり常に今と同じです。
今できないようなことは、未来になってもまずできません。今できるレベルのことを、未来の時間にもおきましょう。その時の疲れ、その時の邪魔、その時の騒音、その時の暑さ、その時の時間のなさを正確に想定してからタスクを置くべきです。