年収1100万円なのに貯金が出来ませんという男性に、本気でアドバイスをしてみた。という記事をたまたま見つけ、ふだん自分がいくらかムキになって述べていることと、雰囲気があまりに酷似しているので、ちょっと紹介しつつまた「持論」を述べさせていただきます。
質問をしている人はどこかに無駄があると信じ込んでいる。FPに限らず、お金を貯めることは無駄を削って支出を減らす事だと多くの人が思い込んでいる。
しかし、実際には「無駄な支出なんてない」というほかない。
私はもちろんファイナンシャル・プランナーではありませんし、お金のことは正直、わかりません。
でもこれは私がいつも「時間」についていっていることと、ほぼ同じです。
「ムダを削る」というのは、この記事のなかでも述べられているとおり「ムシのいい考え方」なのです。「無駄をなくせば、今と同じような生活ができて、なおかつ貯金もできる」と考えたくなるのは当然です。
なぜなら「ムダ」というのは、何にもメリットがないのに支払いだけしている状態なのですから、それをなくしても、いやなことは1つもないのです。
でもそういうことはあり得ないのです。
結局は無駄なんてないという事になるので、貯金を増やすには生活水準を落として下さい、という身もフタもないアドバイスにしかならない。
生活水準を落とすとは本人が当たり前だと思っている支出、必要だと思っている支出にまで踏み込む事になるので、確実に痛みをともなう。
これが本当の意味での家計のリストラだ。
「ムダを削ろう」というのは「痛みを回避しつつ貯金だけはふやそう」ということなのです。
もちろん、本人にはムダではないことでも、他人から見ればムダ、ということはあるはずです。
記事にもあったとおり「高額なマンションも習い事も無駄だ!と思う人もいるだろうが、これが無駄かどうかは本人が決めること」なのです。
この原理が、時間に関してもまるまる当てはまります。
人はお金を払ってムダを買うことはありません。同じように、人はわざわざ時間を使ってムダなことはしないのです。
メールチェックに時間をかけるのはムダではありません。疲れている時にぼーっとするのも理に叶っています。同僚とのおしゃべりも職場の潤滑油です。飲み会もそうでしょう。
昔は「この支出は削れませんか?」と一つひとつ確認をしていたが、「ハイ、それは無駄な支出です。今後は辞めようと思います」という回答が返ってきたことは一度も無い。
すでに説明した通り、お金を払っている以上何かしらの価値があり、本人にとっては意味のある支出だからだ。(太字は佐々木)
思わず笑ってしまいました。
「一度もない」のです。
「お金を払っている以上何かしらの価値があり、本人にとっては意味のある支出」なのです。でも貯金したければ、それを削るしかない。だから「痛みを伴う」わけです。
時間もそうなのです。
「いつかやりたいこと」はできません。それどころか「いつかやるべきこと」だってできないでしょう。「必要な休息」すら削らないとならないかもしれません。
そんな事を言うのは、いやなものです。できれば人々に調子を合わせ、
「スキマ時間を活用しましょう。疲れるだけのネットサーフィンに2時間も使っていますよ。これはまるまる削れます。代わりに自己投資として、そうですねプログラミングの勉強と、ブログを書きましょう。そうすれば自己投資の時間が複利となって将来の自由時間として帰ってきます。家族との時間も、週に5時間は増やせますよ」
なんて言っていたいものです。時間術の本といったものにも、こういうことを書いている方がよほどウケは良さそうです。
ただ、5歳の娘すら「ウソつきはドロボウのはじまりだよ」などと言ってくるので気がとがめるのです。
自分の指摘は「そういう天からお金が降ってくるような都合の良い話は無いですよ」という、当たり前だが誰も言わない指摘だ。
この記事の著者さんは何度か「当たり前の指摘」と書いていらっしゃいますが、私はこれが「当たり前」とは思いません。
「誰も言わない」ということは「当たり前ではない」と思うのです。
問題は「私たちは存外「正しい判断」を下している」ところにあるのです。「ムダな支出などない」のは「正しくお金を使っている」と言えるでしょう。
ただ、「正しくお金を使っているのに、お金が足りなくなる」のが問題なのです。
時間もそうなのです。
「ムダな時間の使い方などしていない」からこそ、事態はむしろ厳しいのです。「今までの時間の使い方は間違っていたのだ。これから正しく使えば、やりたいことも自己投資も家族との時間ももっと増えるだろう」というわけにはいかないのです。
「ムダを削る」のではなく「必要」を削らなければならないのです。それは決して当たり前のことではありません。そうしてはじめて時間というものが少しできてきます。
さらには、そうすることによって時間の希少性というものが、いままでよりもなおいっそう意識にたたき込まれます。
以上を繰り返すうちに、時間の使い方は、これまでは「正しい使い方」だったのに対して、これからは「正しい上に足りなくならない使い方」に変わるでしょう。
時間術とはそういうものです。