コーチをつけるとしたら

カテゴリー: Journal

今週の「発想七日!」のお題は「コーチ」

馬車(で目標まで運ぶこと)が語源と言われる「コーチ」。もし

 「何でもいいからコーチをつけてよい」

と言われたら、何のコーチをつけますか?期間は3ヶ月を目安とします。
実在しないようなジャンルのコーチも可。
個人指名(「ともかくこの人にお願いしたい!」ということ)もOK。
なお報酬の心配は無用です。

3ヶ月である程度の効果が見込めて、いま不足している何かを補ってくれるコーチ、ということになるでしょうか。

特定の企業に所属せずに仕事をしている身なので、時々「あれ、今どこにいるんだろう?」とか「次はどこに行こうか?」という疑問がふっとわくことがあります。

企業にいれば1つの仕事が終われば(終わらなくても)次々と新しい仕事が降ってきますし、ある程度の期間いれば部署や役職が変わり、これに応じて役割や心持ちも変化します。

つまり、変化は“外”から勝手にやってきて、しかもそれを受け容れるかどうかについては、ほとんど選択の余地がないことがしばしば。

「ずっと営業畑にいたから、今度は開発をやってくれ」
「現場経験を活かして、今後は新人研修で力を発揮してくれ」

などなど、自分の意向とは無関係に(希望を出せることもありますが)、「次」が決まっていきます。とはいえ、おもしろいもので、「自分が営業なんて…」と思っていたのに、やってみたら思いのほか楽しくて「実は自分は営業向きだったのかも」などと新たな発見が提供されることもあります。

企業の人事部のように継続的に自分のことをウォッチし、蓄積されたデータをもとに判断するのなら(そこにカイシャの事情が入り込むにしろ)何となく整合性を感じますが(納得するしないはともかく)、一人で何かを決めるというのは自由さ、気楽さがある半面、他者の事情が入り込む余地がほとんどありません。

「次」はすべて自分の“中”から出す必要があります。

そんなわけで、自分のことを継続的にウォッチしたうえで、何らかの標を示してくれるような他者がいてくれたら、と思うことがあります。

目的のない航行には、追い風も向かい風もない

・・・自然は、ただそこに存在しているだけです。
企業については、その存在目的は構成員によって確認・合意されています。
自然については、必ずしもそうではありません。
だから、自然の構成員たる個人や企業が個別最適を追求して、全体の不利益になるようなことをしてしまっても歯止めが掛かりにくい。

(中略)

目的もなしに存在してしまっているという点においては、「個人」というものは企業よりもむしろ自然に近い。企業には発起人がいて創業の理念がありますが、われわれは、ただ生まれてきちゃっただけです(笑)。そこで人生の目的なるものを後付けで考えなければならなくなりました。

企業においては目標ありきの行動設計が当たり前のように行われているのに、個人においては必ずしもそうではない根本の理由は、この「存在意義」、言い換えれば「目的」の有無にありそうです(また稿を改めて書きたいと思いますが、個人の生き方を企業経営になぞらえるやり方の限界もここにあると考えています)。

いま自分というものを、(月並みで恐縮ですが)大海に浮かぶ小舟に例えてみましょう。悪天候を避けるためだけに懸命に天気を読んでも、小舟はどこへも行きません。目的のない航行には、追い風も向かい風もないのです。当たり前ですね。どこへ行ってもいいんですから。自分が目的地に顔を向けて初めて、風を背中に感じるか、胸に感じるかの違いに意味が出てきます。

いまの状態はまさに個人として「個別最適を追求」しているだけの状態かも知れません。

そこで、自分のありたい姿、到達したい目標を把握したうえで、現状を見守ってくれる他者(コーチ)が、自分では目標に向かっているつもりなのに実は遠ざかっている、というようなことを指摘してくれると良いかも知れません。

うーん、でもこれだと3ヶ月では済まないか…。

ふと思うのは、コーチというのは相対的なものなのではないか、ということです。誰かにコーチをしてもらいながらも自分は別の人のコーチでもある、というような。コーチ(ング)について詳しく論じる立場にはないのですが、お互いの強みや弱みを補完しあうような相互コーチのようなものができてもいいのかな、と思います。

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