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どんなに詳しく記録に残しても、時間とともにその“魂”は抜け落ちていく



大橋悦夫「二重生活」という2016年公開の日本映画を観ました。テーマは「尾行」。この「尾行」によって作られた、いわば観察記録が、尾行対象者本人がつけた記録と一致しないことがあるという、考えてみると当たり前の真理が提示されるのですが、僕自身はこの真理に触れて思うところがありました。

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» 二重生活

二重生活

外からも見える行動、内からしか見えない感情

先にも書いたとおり、この作品は主人公(大学院生の女性)が出版社の編集長(妻子持ちの男性)をひたすら尾行し続け、その観察記録を残すという、かなりグレーな内容です。

最初はおっかなびっくりだった主人公も尾行を続けるうちに、好奇心のおもむくままに大胆になっていきます。

とはいえ、作中の大半の出来事は、主人公の視点からしか描かれないために、特に尾行対象の男性の行動がいかなる動機や感情に基づいているのかは、外から見える行動から推測するほかありません。

当然、見た目と真相は一致しないこともあるでしょう。実際のところ、この不一致が映画の後半でクローズアップされることになります。

つまり、

  • 尾行によって尾行対象以外が観察を通して残した記録(見た目)
  • 尾行対象が自身で残した記録(真相)

という、少なくとも2つの側面がそこにはあるわけです。

さらに、尾行による観察記録であっても、それが尾行対象自身が気づかずにとっている行動が残る場合もありますし、観察不能かつ尾行対象本人にも記録不能な行動もあるでしょう。

整理すると以下のようになります。これは「ジョハリの窓」と呼ばれるモデルです。



尾行で明らかになるのは、【開かれた「私」】【気づかない「私」】のセル、すなわち上半分です。ここが「見た目」です。



一方、自らの記録で明らかになるのは、【開かれた「私」】【秘められた「私」】のセル、すなわち左半分です。



日々の記録が後から役に立つのは、多くの場合【秘められた「私」】についての記録です。

「私はこの仕事をいったいどのように終わらせたのか?」という問いに答えてくれるのは、今の自分を除いては過去の自分しかいないからです。

ここが「真相」です。

↓日々の記録には、この「真相」を未来の自分に託さんとする目的があるわけです。

» 仕事を1つ終えるたびに、その所感をいちいち書き残しておくことの効用

真の真相は誰にも分からない

でも、もう1つ、右下にある【閉ざされた「私」】が気になりますね。



この部分は書かれているとおり「誰からも知られることがない」神秘の領域です。神のみぞ知る、神の視点といえるかもしれません。

実に神性を感じます。

記録を読み返すと、そこに書かれていないことまで思い出されることがあります。

が、あまりにも昔の記録だったり、そもそも印象の薄い体験についての記録の場合、それを読み返してもピンと来ないこともあります。

「記録を読み返す」というトリガーをもってしても、記憶が蘇らない段階であり、ここに至るともはやその記録はすっかり“本人性”を失い、尾行による観察記録のような様相を呈してきます。

言ってみれば、記録に宿っていた“魂”が抜け落ち、「本当にこれは自分がやったことなのだろうか?」という確信が持てなくなる状態です。

「記録だけが知っている」という意味で【気づかない「私」】に変異してしまうのです。

すると、自分のとった行動のはずなのに、その真相は記録から推測するしか知る術がなくなります。

このことが何を意味するのか?

僕の仮説は、【閉ざされた「私」】が“脚本”を握っており、“物語”の進行に欠かせないものが記憶に残りやすくなり、逆に進行の妨げとなるものは記憶から失われやすくなる、という取捨選択を本人の気づかないところで行っているのではないか、というものです。

神性を感じるゆえんです。

そうなると、記録に残せるものは、その「知られざる私」による取捨選択操作の“痕跡”でしかないということになります。

この部分は「二重生活」のラストのセリフにもつながってきて興味深かったです。

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二重生活