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「シュレーディンガーの猫」と「自分の時間の使い方の記録」の関係



大橋悦夫この週末、ふと耳にした「シュレーディンガーの猫」という言葉が気になって調べてみました。軽い気持ちで調べ始めたら、うっかり深い沼でした。それでも、すぐに「あ、これはあちこちにつながる感じがする…」という予感というか直感がありました。この言葉の定義については専門外なのであえて触れませんが、代わりにその予感というか直感について。

まず、「シュレーディンガーの猫」という言葉を耳にしたシチュエーション。

数人のグループ討議を行っている中で、Aさんが発言中でした。その中で不意に「まぁ、シュレーディンガーの猫じゃないですけど、○○なんですよね」というひと言を発しました。そのひと言を受けて、Aさんの正面に座っていたBさんが、「あぁ~(笑)」と、明らかに呼応しています。

「え? なんでそれで通じ合ってるの? シュレーディンガーって有名な人? その猫には何か特別な意味があるの?」などと、頭の中に次々と疑問符が浮かび、そこで僕の思考はストップしてしまいます。

ほかのメンバーは分かりませんが、少なくともAさんとBさんの間ではコミュニケーションが成立しており、討議はそのままどんどん進んでいたので、「え? シュレーディンガーの猫って何ですか?」といった問いかけはひとまず飲み込みます。

討議が終わり、解散し、一人の時間が訪れたところで、さっそく「シュレーディンガーの猫」探しを始めした。

「自然体」は装えない

「シュレーディンガーの猫」とは、ひと言でいえば…いえ、僕にはひと言ではいえませんので、代わりに僕がここから着想したのは、

  • 自らの意図に気づいたら負け

といったところです。

ちなみに、もっとも役に立ったのは(すでに多くの先人たちがここに“矢印”を向けているとおり)、以下のページに始まる一連のページ群です。

» 量子力学 2重スリット実験 – 哲学的な何か、あと科学とか

「2重スリット実験」についての解説が7ページ続いた後に、これを前提とした「シュレーディンガーの猫」の解説が始まります(各ページ末尾に「関連事項:~」というリンクがあるので、これを次々にクリックして進んでいきます)。

読みながら、「あぁ、もしかしてあれのことか?」、「うん、やっぱりあれっぽいな」、「ということは、こういうことでもあるんだろうな」といった具合に、白い紙に垂らした墨汁のシミがじわ~っと広がるように、少しずつ理解が進みます。

もちろん、正しく理解できているかどうかは確かめようがありませんが、そもそも理解とは、既知(自分の中)の何かと未知(自分の外)の何かが結びつきを得ることだと僕は考えていますので、持てる既知を総動員して未知に向き合い続けるしかないわけです、たとえそれが間違った結びつきであったとしても。

そのようにして至った結びつきとは、以下の記事でもご紹介したコミック『妻に恋する66の方法』に出てくるあるエピソードです。

» 疲れたときに読んでいるマンガ『妻に恋する66の方法』

内容としては、「妻」の観察日記であり、ストーリーはないに等しく、とにかくたんたんと日常が描かれます。

  • ストーリーのを把握しなくて良い
  • 展開を予想しなくても良い
  • どこまでいっても大逆転もどんでん返しもない

という、「では、いったい何のために読むのか?」と問われると、答えに窮するのですが、「どうしてるかな?」と気になったときに読みたくなるのです。

当の「妻」はこの「観察日記」たるマンガ作品を当然、目にすることになります。刊行前の原稿段階ですでに、作者の「手伝い」として目に触れます。

当然、「あぁ、私のあの行動は、このように描かれるのだな」という意識を持つことになります。持たざるを得ないでしょう。

その結果、「こういう風に描いて欲しい」あるいは「こういう風には描かれたくない」といった意図が生じ、この意図が「妻」自身の行動に影響を与え、引いてはこれを観察する作者の「観察結果」にも影響を与えます。

この「影響」について、作者がまさに言及しているエピソードが出てきます。

ざっくりまとめると以下の通り。

  • 1.作者は、妻が取っているある行動についてマンガの題材にしたいと考える
  • 2.作者は、この行動をマンガに描くために、より詳しい状況を妻に尋ね始める
  • 3.ここで妻は「あ、これはマンガに描くのだな!」と察する
  • 4.妻は妻なりに「マンガに描きやすいように」説明を始める
  • 5.ここで作者は「もうこのネタのリアリティは損なわれた」と感じて落胆する

つまり、リアリティを追求するために対象に近づけば近づくほどに逆にリアリティが損なわれるというアンビバレントな構図です。

写真を撮ってもらうときに「はい、肩の力抜いて~、自然体で~」などと“指示”されることがあります。特に「自然体で」などは言われれば言われるほど「不自然」にしかならないじゃないか、と思ってしまいます。

上手いカメラマンは、ふと気づいたら自然体になるような“誘導”をかけてきます。撮られている側として、そのカラクリが分かってしまうと、やはり「不自然」に転化してしまうので、それが分からないうちにサッと自然体を“捕獲”してしまうわけです。

『妻に恋する66の方法』の作者は、常にこの課題に直面しているはずです。

この作品を描き続ける限りは、「妻」の「描かれる」という意識は鋭くなっていく一方でしょうから、その言動は「観察」による影響を免れ得ないことになります。

その結果、マンガとして描かれることになる「日常」は、少しずつその「日常性」を損なっていくことになると思うのです。

このことの善し悪しは分かりませんが、しかし、観察と記録という観点でとらえ直すと、この影響をポジティブに捉え、活用できる領域が見えてきます。

「あるがまま」から「ありたいまま」へ

具体的には、自分の時間の使い方の記録です。

自分が何にどれくらいの時間を使っているのかを正確に「あるがまま」を記録に残そうとすると、それがほとんど不可能であることに気づかされるでしょう。

記録をせずに、まさに「あるがまま」で過ごしているときというのは、その「あるがまま」に対して意識の矢印は向いていません。だからこそ「あるがまま」でいられるのです。

それがひとたび「記録に残す」ことになると、途端に「あるがまま」が「あるがまま」性を損ない始めるのです。

自分の「あるがまま」がこんな感じであるはずがない! 自分の「あるがまま」とはこういう風であるはずなのだ、という“偏向”の影響を免れ得ないのです。

その結果、「こうありたい」という理想的な記録が“吸引力”を持ち始めます。この過程で、自らの行動は時間をかけて「こうありたい」に最適化されていくことになります。

つまり、常に自らを観察対象とし、記録を続けることは、自然と自分を「自分がありたい理想」にふんわりと駆り立てていくわけです。

ただし、1つ条件があります。この記録は誰にも見せない、自分だけが見るものであると決めることです。

自分だけしか見ない、他人に見られることはないという保証が得られている限りは、「ありたいまま」という自らの“北極星”に近づき続けることができます。

そして、この“軌道”から外れない限りにおいて、この軌道上にいる自分は「あるがまま」でありながら「ありたいまま」に向かえているという安定感が得られます。