本を読むことは、一部の層では有り難がられていますが、実際のところはどうなのでしょうか。
プラトンは『パイドロス』の中で、ソクラテスにこう語らせています。
それならば、ひとつの技術を文字の中に書きのこしたと思いこんでいる人、また他方では、書かれたものの中から何か明瞭で確実なものを摑み出すことができると信じて、その技術を受けとろうとする人、こういう人はいずれも、たいへんなお人よしであり、まさにアンモンの予言を知らざる者であるといえよう。
否定的なニュアンスが感じられますね。彼(ソクラテス)は「本」だけでなく、総体としての書き言葉に疑義を持っていたようです。
哲学者ショウペンハウエルは『読書について』の中で、もっと辛辣に語ります。
読書は、他人にものを考えてもらうことである。本を読む我々は、他人の考えた過程を反復的にたどるにすぎない。習字の練習をする生徒が、先生の鉛筆書きの線をペンでたどるようなものである。だから読書の際には、ものを考える苦労はほとんどない。自分で思索する仕事をやめて読書に移る時、ほっとした気持になるのも、そのためである。だが読書にいそしむかぎり、実は我々の頭は他人の思想の運動場にすぎない。
ここでは、他人が書いたものを読むことへの徹底的な攻撃が行われています。しかもこの哲学者は、そうした攻撃を書きものの中で行っているのです。実に執拗な態度と言えるでしょう。
以上のような話をまとめると、「思考力を上げるためには読書をしましょう」とは言いづらくなります。なにせ、明瞭で確実なものを掴めることもなく、また自分の頭を「他人の思想の運動場」にしてしまうのですから。
さて、これは本当なのでしょうか。
読書の危うさ
ショウペンハウエルは頭の良い人だけあって、すぐれた喩えを用いています。
「習字の練習をする生徒が、先生の鉛筆書きの線をペンでたどるようなものである」
たしかにその通りです。
多くの本では論旨が展開されており、読者はそれを頭の中にコピーしていきます。著者がAであり、Bであるから、Cなのだと書けば、それと同じ論旨が読者の頭の中でも展開されるのです。本を読み慣れていないときは、まさにその論旨が(あるいは、その論旨こそが)正しいような感覚を覚えます。
私も20代のころ、今から考えると明らかにトンデモ科学な内容の本を、「へぇ〜、なるほどそうなんだ」と納得していた経験があります。ソクラテスやショウペンハウエルが危惧しているのは、まさにそうした状態でしょう。また、優れた書き手ほど、文章をスラスラ読ませて、論旨に破綻がないかのように見せかけるのが得意です。そういう人の本ほどよく読まれるわけで、そこに潜む危険性には一定の注意が必要でしょう。
しかし、疑問は残ります。
「私たちは思考というものをいかにして学ぶのか」
という疑問です。
どうやって学ぶのか
そもそも、なぜ習字の練習で、先生の線をなぞるようなことをするのでしょうか。それは、文字の正しい形や書き順を体に覚えさせるためでしょう。綺麗な字がまったく書けない状態から、書ける状態に移行するためには、そうした訓練が欠かせません。
同じようなことは、「思考」にも必要ではないでしょうか。
「考え方」をまるで知らない人間が、「考える」ことなどできるでしょうか。もちろん、それぞれの人なりの「考え方」はあるでしょうが、その射程は限られています。うまく考えられるようになるためには、どこかで「考え方」を学ばなければいけません。それも、辞書的に暗記するのではなく、実地的・体験的に学ぶ必要があります。
そのとき、震えるほど役に立つのが本です。あるいは、読書という行為です。
一般的にいって、他人の「考え」は目には見えません。誰かが頭の中で何を考えているのかは見えないのです。だから、行動の観察だけでは思考は学べません。学ぶ(真似る)対象が可視化されていないからです。
しかし、本の中ではまさにその可視化されていないものが見える形で示されています。読者はそれを読むことで、著者の思考をなぞることができるのです。そしてそれは、まさに「考え方」を学ぶ一番効果的な方法でしょう。
抱える課題
とは言え、本は万能のツールではありません。いくつか問題があります。
まず、一つの本で触れられるのはその著者の「考え方」だけです。その「考え方」が適切なものなのかどうかはわかりませんし、また世の中にはいろいろな「考え方」もあります。読書の幅が狭いと、思考の幅も狭くなってしまう可能性があります。
次に、なぞっているだけでは実用力が育たないこともあります。
習字でも、線をなぞっているだけではダメで、ある程度慣れてきたら白紙に向かって自分なりに字を書いてみる経験が必要でしょう。思考でいえば、本に書いてあること以外について自分なりに考えるという行為がそれにあたります。
ショウペンハウエルは、多読しすぎる危険性についても書いていますが、他人の思考をなぞるばかりで、自分なりの思考を発動させるような時間がまったくなくなってしまう点には注意が必要でしょう。
最後に、「考え方」がまったく書かれていない本もあります。こういう本は、初期段階の思考力の向上にはあまり役立ちそうもありません。
さいごに
まとめると、「読書をすれば思考力が鍛えられる」という考え方はあまりにシンプルすぎます。
「考え方」を学ぶためには、他者の思考の足跡をなぞっていくのが有効ですが、それだけで終わるものではありません。できるだけ幅の広い「考え方」にアクセスし、それぞれを十分に相対化できるようになることも必要ですし、そうして学んだ考え方を自分なりに実際に使っていくことも必要です。また、どんな本をどのように読むのかも重要な問題です。
とすると、「こんな本を読みましょう」と提言したくなってくるのですが、そこは自重して「できるだけ幅広く本を手に取るようにしてみましょう」と言うに留めておきます。それだけでも、十分効果がありそうです。
▼参考文献:
書き言葉と、話し言葉についての違いについては、おそらく現代においても有用な考え方でしょう。文字の効能ということよりも、対話の価値について再確認できます。
» パイドロス (岩波文庫)
本を読むためには、本を読みすぎない方がいい、という至極まっとうな話です。
» 読書について 他二篇 (岩波文庫)
▼今週の一冊:
詳しくは別途エントリーしますが、付箋という文房具(あるいは考具)を俯瞰してやろう、という野心的な本です。個人的には、ノート、付箋、カードは知的生産アナログツールの代表格なので、こういう本を待っていたという感覚があります。
» ふせんの技100 (エイムック 3484)
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自分の本を進めながら、雑誌作りも進めています。ええ、混乱気味です。いったい複数の本を並行で進めている編集者さんの頭の中はどうなっているのでしょうか。まあ、慣れの問題なのでしょうけれども。
▼倉下忠憲:
新しい時代に向けて「知的生産」を見つめ直す。R-style主宰。
» ズボラな僕がEvernoteで情報の片付け達人になった理由