今週の「発想七日!」のお題は「絵本」。本棚を眺めるまでもなく絵本といえばこの2冊しかありません(というかほかに読んでません)。
「ぼくを探しに」とその続編「ビッグ・オーとの出会い」の2冊です。

まぁ、絵本なので引用しようがないのですが、訳者のあとがきからちょこっとご紹介。
…単純な線と最小の言葉で描かれ語られた、大人のための童話になっている。大人のための童話というのは形容矛盾に聞こえるが、考えてみると大人の大部分はうまく大人のふりをしていけるようになった子供か、それがうまくできないでいる子供か、そのいずれかであって、文学の中にはもっぱらこの子供の方に訴える方のものがある。その種のものは大人が読むための童話である。シルヴァスタインの童話がアメリカで人気が高いのは、大人を演じるのに成功しているにしろ失敗しているにしろ、アメリカ人が自分の「子供性」を鋭く意識している人間であることを示すものかもしれない。
これに対して日本人の場合は、子供がそのまま大人として認められるように世の中ができていて、自分の中の自分をあまり意識しないで済むし、またそのことで悩んだりすることも少ない。それどころか、日本では、大人を演じることが下手な人間はその純真さや童心、要するに幼稚さを売物にして生きればかえって珍重されるのである。そういう日本人にはシルヴァスタインのような発想は案外なじめないのかもしれない。
必死に大人のふりをしている、自己申告型のアメリカ人と、子供でも大人として認め合う、他者承認型の日本人。自分が大人であることを何らかの形で主張することが求められ、絶対的な自己主張が尊重される土壌と、大人を匂わせ人をして自分の立ち位置を相対的に決定する他者の評価を意識する風土。
いずれにしても子供であることには変わりがないのですが、視座を大人に置くか子供に置くかの違いでしょうか。
そういえば、友人の日記の一節を思い出しました(mixi日記のため引用もとは伏せます)。
──とある夏の昼下がり。私は友人と、ショッピングモールに訪れていた。その屋上駐車場に、プールがあった。
プールと言っても、円筒型のゴムプールだ。
本格的な広さはないが、十人くらいは入れる中型サイズだった。子どもたちを預かることで、親たちの買い物をスムースにさせようという企画らしい。係員のおばさんがいて、小さな女の子が2人、きゃっきゃっと水遊びをしていた。水がかからないように通り抜けて、涼しい店内にはいる。
直射日光が遮られて、視界が一瞬、暗くなる。やはり蛍光灯は日光にはかなわない。が、すぐに目は慣れて、汗も引いていった。モール内はじつに快適だった。私の後ろを歩いていた友人が、ぼそりと呟いた。
「最近、子どもがめっちゃ可愛く見えるんだよね。」
私は適当に相づちを打った。
「ドキドキするとか、ハァハァしなけりゃ、問題ないだろ」
友人は答えた。
「いや、そーゆーんじゃなくて。
子どもって、スゴイなぁと思うんだ。
あんなに小さいのに、生命力に満ちあふれてて・・・」
ふりむくと、友人は外のプールを見ていた。たしかに、この対比は強烈だった。
太陽と水・・・元気に遊ぶ子どもたち・・・活力に満ちた外界。
蛍光灯とエアコン・・・しょぼくれた大人たち・・・効率重視の室内。
それらが、ガラス戸を挟んで向き合っていたのだ。
どうしても、子どもたちを見る目が細くなってしまう。比喩ではなく、リアルにまぶしいからだ。◆ ◆ ◆
エスカレータを降りながら、私は少し不安になった。
「いや、私たちも生きている。
これからプールに行くこともできる。
子どもは大切だけど、崇拝しちゃイカン」
「・・・」
「子どもには可能性がある。なんにだってなれる。
比べると大人は、可能性を消耗した抜け殻に見える。
だが、子どもは子どもだ。
子どもは、大人になるから価値があるんだよ。
可能性に価値があるわけじゃない。」
「・・・」
「あの娘たちだって、どんな大人になるかわからない。
何者でもない無垢を崇拝するのはおかしいだろ。」
「・・・」私は少し不安になった。
「ぼくを探しに」の中に、主人公がハッとするひとコマがあります。
なるほど
つまりそういうわけだったのか
読み返すたびに、この一言の意味も重みも増しているような気がしています。そして、この一言は子供と大人の境界線を超える瞬間をとらえたものだと思うようになりました。子供性は永遠に失われることはないのですが、その子供性の捉え方が年とともに変わっていく、その連続した状態の継続全体を大人と呼ぶのかも知れません。
まぶしいくらいに無限に広がる可能性が、気づくと薄暗い蛍光灯にぼんやりと照らされた有限の選択肢に変わるとき、その選択肢は残滓(ざんし)であり、そこに太陽はありません。
でも、“外”に出れば太陽はそこにあります。そういえば、「最良のアドバイスとは」というエントリで書いたことを思い出しました。
右も左もわからない状態であれば、長い物に巻かれてしまうのも1つの方法ですが、どこかのタイミングで鎧を脱ぎ捨て自分をゼロ(=原点)に置いてみるのも“裸”の自分を知るうえでは効果的だと思います。特に「自分の好きなことをやる」ためには、「自分は何が好きなのか」を知る必要があり、それは、考えてわかるものではなく、外に出て自分の身を風雪にさらさない限り見えてこないものです。
そう考えると「好きなことをやれ」というのは、「好きなことを見つけろ」とほぼ同義になります。でも、「好きなこと」は一度見つければそこで終わり、ということはなく、ずっと探し続けるものです。恐らく「好きなことを見つけた」という完了形ではなく、「好きなことを見つけ続けている」という進行形なのだと思います。
好きなことを探し続けること、見つけ続けることが大人にとっての子供性の発現であり、子供にとっての大人ぶりの手段といえるかも知れません。
この2冊の絵本を読むたびに自分の中に同居する子供性と大人ぶりを思い出します。














1.
2.
3.



7.





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