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アイデアに一生を費やすことができるか?

アレックスと私
アレックスと私 アイリーン・M・ペパーバーグ Irene Maxine Pepperberg

幻冬舎 2010-12-16
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タイトルはただ付けられたように見えるでしょうし、「アレックスってそもそもだれ?」という人が手に取る可能性は高くなさそうです。

しかし本書を一度読み通したら表紙の印象は一変するでしょう。アレックスはオウムです。すでに亡くなったオウムなのです。

「雑音を気にしない」ことの恐ろしい難しさ

著者アイリーン・ペパーバーグは「オウムのコミュニケーション能力」の研究者としては第1人者で、この世界で知らない人はおそらく誰もいないほどの有名人です。

しかし有名であるということと学者として高く評価されているということの間にはほとんどなんの関係もありません。私がアメリカ留学したときの心理学の教官の中で彼女の研究を高く評価している人はほとんどいませんでした。

行動科学の授業などでは「アレックス・スタディ」をわざわざ副教材から外していたほどでした。当時私にはその意味が分かっていませんでしたし、目が回るほど膨大な英語論文を読まねばならなかったので、オウムの話など読まずに済んでラッキーくらいに感じていたのですが。

2003年でもそういう状況でしたから彼女が研究を開始した1978年頃に「動物とコミュニケートできる」という研究テーマがいかに白い目で見られていたかが分かるというものです。当時まだ十分な勢力を誇っていた行動科学において動物に言語が扱えるはずがないし、場合によっては「動物には心がない」のですから。

審査委委員会から届いた手紙は、まるで私が変なクスリのせいで、あり得ない妄想を抱いているのではないかと言いたげな内容だった。私が実験で示せると主張した言語能力や認知能力がバード・ブレインごときにあると考えること自体ちゃんちゃらおかしいし、さらに、当時は当たり前だと思われていたオペラント条件づけで訓練しないなんて、私の頭がどうかしているのではないかと言外にほのめかされた。(p.98)

研究費の申請を提出すれば「頭がおかしいのではないか」と突き返され、論文を投稿しても査読すらしてもらえない。それがどういう感じかはやってみないと分からないものですが、これで挫折しなかったのが不思議としかいいようがない扱いです。

バイアスがないなら何もない

科学の世界にも偏見はあるのです。今ではこの事実が少しずつ受け止められてきましたが1980年代あたりでは決してそうではありませんでした。ペパーバーグ博士はいわば「動物に人と言語コミュニケーションする能力などあるはずもない」という「科学的常識」に向かって孤軍奮闘していたわけです。

このようなエピソードにおいてはよく、「頭の固い老学者ども」が残らず敵に回っていても、「家族が支えてくれた」とか「恋人の惜しみない支援があった」などの心温まる話があるものですがペパーバーグ博士にはそれすらありませんでした。

当時すでに破綻しかかっていた結婚生活もさらに難しくなった。デヴィッドは私に、実質「君はすべてにおいて失敗だ。研究室をたたんで、ちゃんと収入になるような“本当の仕事”をしたらどうだ? シカゴで生活するにはお金が必要なんだ」という旨の言葉を突きつけた。(p.148)

すなわち当時の情勢において「オウムの言語能力を確かめる」という研究テーマは「本当の仕事」ではなく、少しいかれたポスドクのお遊びとしか映らなかったわけです。配偶者の目から見てもそうなのですから権威ある行動科学者や動物行動学者にどれほど蔑視されていたかは推して知るべしでしょう。

しかし決して「権威」の肩を持つわけではありませんが、私達のものの見方というのは私達自身が納得の行くようにとことんまで歪んでいるのが自然です。バイアスというものがないなら、ものは見えないと言ってもいいほどです。誤解を恐れずに言えば権威があってもなくても、私達は「ものを見るために世界を都合良く歪める」のです。

だいたい、オウムは本当に意味が分かって言葉をしゃべるのでしょうか?

本書にはアレックスが大切な研究費の申請書を切り刻んだため、ペパーバーグ博士が激怒し、それに対してアレックスが「アイム・ソーリー」と「謝る」シーンがあります。アレックスには「アイム・ソーリー」の意味が分かっていたのでしょうか? それとも「激怒に対しては謝る」という「条件付け」がなされていたのでしょうか? あるいはペパーバーグ博士が「アイム・ソーリー」と好んで空耳したのでしょうか?

他の可能性も考えられます。アレックスはいわゆる「哲学的ゾンビ」なのかもしれません。チューリング・テストに偶然合格できるやりとりをそのときたまたま交わしただけかもしれません。

どの見方を採用することもできますし、どれをも採用しないことだって可能です。ただしどの見方を選んだとしても、私達は特定の見方にいわば「参加する」ことになるのです。

「周りが見えていない」ことの大切さ

ペパーバーグ博士に自分の置かれていた状況がはっきり分かっていなかったことはたしかです。彼女の学歴がそれを示しています。「ハーバード大学大学院修了、化学物理学で博士号を取得」。「言語心理学」でもなければ「動物行動学」でもないのです。

今となっては、そのような返事がきたことは驚くべきことではなかったと理解できる。私は心理学や生物科学について専門的な教育を一切受けていなかったし、その分野の学位も資格もなかったし、その上、当時ほとんど受け入れられていなかった訓練方法を使おうとしていたのだ。そんな私が研究費をもらえると思うこと自体、世間知らずにもほどがある。(p.98)

しかしそれなら、「権威」も「世間」も一切信頼しないというのであれば、何をもって「自分のことを世間は受け入れられるべきだ」と信じればいいのでしょう。誰にも相手にされていないような「信念」を振りかざし、拒否した相手を「古い考えにしがみつくアホ」(p.98)と突っぱね続ける姿は実に痛々しいものです。

彼女の姿勢を許容できるものは「アイデア」だったと、個人的には思います。「人」が世間に受け入れられないことが問題なのではなく、「アイデア」が拒絶されていることこそ問題なのです。ペパーバーグ博士のケースではこれに明確な理由がありました。スキナーの「オペラント条件付け」というすばらしいアイデアと、ペパーバーグ博士のアレックスが対立して見えたから、学会から拒絶されたのです。

あるアイデアの肩をどうしても持ちたいなら、逆説的にもそのアイデアをもっとも厳しい境遇に置いてみて、それでもそのアイデアが立っていられるかどうかを厳しくチェックすべきでしょう。このプロセスを実行する際において私達はものすごく情熱的になれるのですし、このプロセスにおいては「周りが見えなくなる」ことが正当化できるのだと、私は考えます。

▼編集後記:
佐々木正悟
 でもやっぱり「バード・ブレイン」に「意味ある言葉」が発せられると信じられない「懐疑派」の方のためには、次の本の方がお勧めです。

ただし、とても高い上に専門的なので「中身検索」してみるとよいでしょう。

アレックス・スタディ―オウムは人間の言葉を理解するか
アレックス・スタディ―オウムは人間の言葉を理解するか Irene Maxine Pepperberg 渡辺 茂

共立出版 2003-02
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