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「こうすればモテる」から離れる



大橋悦夫古い記事ですが、雑誌「PRESIDENT」の2014年3月17日号に平井正修(ひらい・しょうしゅう)さんという臨済宗住職の方が以下のようなことを書かれていました。

禅の自由は、文字通り、自らに由ること。自分の足で立つこと。自立をすることである。この自由の境地から、本物の自尊心が湧き上がってくる。現代風に言えば、自分の本当の価値を知ることになるのである。

(中略)

自分の本当の価値とは、比較から生じるものではない。

これについて、以下のような事例が添えられていました。

たとえば、「よい子」と言われる子供がいる。食事の仕方も綺麗だし、人が集まる場所では静かにしているし、駄々をこねることもない。だから大人たちは、その子供のことを「よい子だ」と言う。

だが、なぜ大人たちがその子をよい子だと言うのかをよくよく考えてみれば、それは大人にとって、他の子どもより都合がいいからにすぎない。都合がいいことを「よい」と価値づけし、その子を「よい子」だと位置づけしているのである。

この位置づけもまた、その子の本当の価値とは無関係である。

「こうすればモテる」から離れる

子供だけでなく、実は大人も同じ“仕組み”で動いていることに気づきます。

どのようにすれば、

  • 人から認めてもらえるか?
  • 「すごい」と言ってもらえるか?
  • 「さすが」と感心してもらえるか?
  • 「いいね!」してもらえるか?
  • モテるか?

といった“下心”が行動の後押しになっていることは少なくないでしょう。

もちろん、その下心があるから行動が起こせるわけですが、下心を満たすことが行動を起こす目的ではないはずです。

目的は別にあり、下心はこれを実現するためのブースターであるに過ぎません。

ただ、もしこの目的それ自体が十分に行動をブーストしてくれるものであれば、もっと純粋に行動が起こせるのではないか。

平井正修さんはこれについて以下のように書いています。

「人の信頼を得たい」などと願うことは、禅的に言えば、すでに心が囚われた状態、不自由な状態なのである。人からこう思われたいと願い、そう思われるように振る舞うことは、自らに由って生きているのではなく、他者の評価に由って生きようとしていることにほかならない。

よく、「○○さんだからできたんでしょ。私には到底ムリ…」というひがみのような物言いがありますが、これは裏を返すと「私でもできるような方法が有るなら、やるんだけど(実際には無いからやらない)」ということになります(こういうのを反実仮想と言いますね)。

でも、実際に「誰にでもできる方法」が手に入ると、誰にでもできるがゆえに、「誰にでもできることをわざわざ自分がやることもないのではないか」ということで、結局はやっぱりやらずに終わるのではないでしょうか。

そう考えると、「あなただからできたんでしょ」と言われることが結果として目指すことになる着地点になるのではないか、と思う次第です。

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