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これからの「知的生産の技術」の主役と舞台

By: Jim WhimpeyCC BY 2.0


倉下忠憲1969年に『知的生産の技術』が出版されて、大きなウェーブが起きました。学者さんたちの「知的生産の技術」が世に解き放たれ始めたのです。

これまでそうした話題は、書斎や研究室の中に閉じ込められていました。密室と言うと大げさですが、あまりパブリックに公開されることはなかったのです。

そこにクリティカルな打撃を与えたのが『知的生産の技術』でした。

素材はある。されど……

この本の後に続くようにして、「知的生産」について書かれた本が次々と出版され始めました。言葉が定義され、ジャンルが誕生したのです。

一冊一冊名前をあげることはしませんが、「知的生産の技術」や「知的生活の方法」に関する本がほんとうに数多く出版されました。中には、現代まで読み継がれている、古典とも呼べる本もあります。

当初、筆をとっていたのは学者さんだけでしたが、徐々にジャーナリストさんにもその輪は拡がっていきました。どちらにせよ「知的生産」を生業としている人たちです。そうした人たちの「技術」や「仕事ぶり」が多くの人たちに知られることとなりました。

おそらく「新書」という形態も一役買っていたのでしょう。

(今はどうかわかりませんが)一昔前の新書は、専門的な学問のお話を一般市民にも理解できるように「開いた」入門書が数多くありました。一般市民の教養を支えていたわけです。そのようにして、「知的生産」を生業としない人たちにも、知識は広く行き渡ることとなりました。

しかし、それだけでは「素材あっても、道具なし」な状況です。

本を読んで知識を蓄えた。いろいろ考えもした。じゃあ、その次はどうしたらいいのか。

おそらくそんな状況が生まれていたのではないでしょうか。一般市民の多くは、別に知的生産の専門分野に従事しているわけでもありませんし、師匠がいるわけでもありません。読書によって知的好奇心が刺激されても、その先に進む術を持たないのです。

岩波新書の創刊が1938年ですが、そこから30年ほど経った1969年に『知的生産の技術』が出版されたのも、「いろいろ読みはしたが、出す術を持たない人たちのもやもや」が溜まりに溜まっていた背景があったのかもしれません。

だからこそ、『知的生産の技術』は新書で発売されましたし、その後に続く本たちもほとんどが新書となりました。背景を考慮すれば、これはしかるべき着地点と言えるでしょう。

現代の「知的生産の技術」

話は変わって、視点を現代に戻します。

現代では「知的生産」を生業の一部としている人は数多くいます。いわゆるホワイトワーカーと呼ばれる人たちは皆そうです。

また社会の情報化が進むことで、ごく普通に生活していても「知的生産の技術」が、__その名前を露わにすることなく__ひょっこり顔を出すことが珍しくありません。たとえば、ネットの情報をどう評価するのか、SNSでどう発信するのか。こうしたことは紛れもなく「知的生産の技術」の一部です。

とは言え、まだその「技術」はさほど普及も研究もされていません。あくまで個人技に留まっていて、仕事場の中に閉じ込められているような状況です。

たまに著名なビジネスパーソンの「仕事術」が本として出版されることはありますが、ほとんど例外的な話と考えてよいでしょう。限定的な分野の話が大半ですし、そうでなくても「知的生産」に従事している人の数の多さを考えれば、情報は圧倒的に不足しています。

ここ最近Excelの使い方に関する本がよく出版されていますが、まさに情報不足の状況をよく表しています。ある種の人たちは「いまさら、こんな基本的なExcelの話かよ」と思われるかもしれませんが、その認識が間違っていることは、こうした本が売れていることが示してくれています。

皆が「当たり前」だと思っている技術は話題にのぼらず、後からきた人たちには共有されません。それはまさに『知的生産の技術』以前の「知的生産の技術」に関する話と同じです。

しかし、今後状況は変化していくことでしょう。

主役と舞台の交代

昔は、書き手は学者で、舞台は新書でした。現場にいた人が学者で、伝わるメディアが新書だったからです。

これからは、書き手はホワイトワーカーで、舞台はセルフパブリッシングとなっていくでしょう。時代の趨勢はそちらを向いています。

1969年に比べて、状況は大きく変化しました。ここでは3つに絞ってみていきます。

まず、「文章を書くための技術とツール」が進歩しました。「執筆」に苦労が伴う点はいつの時代でもかわりませんが、執筆の上で注意すべき技術的な話や、それを支えるツール群は充実してきています。

また、仲間やパートナーを見つけやすくなっている環境もあります。もちろん最後の最後はひとりでコツコツと原稿用紙(というかエディタ)に向き合う必要があるわけですが、ネットを介することで、アイデアを議論したり、下読みを頼んだりする人を、研究室や学会に属していなくても見つけることができます。

最後に、出版にかかるコストが劇的に低下しました。この連載でも度々触れている話ですが、少しの面倒な作業を乗り越えられる程度のやる気さえあれば、誰でもが「本」を出版することができます。

このような状況から、今後はホワイトワーカーが、自らが持つ「知的生産の技術」を次々に公開するようになっていくでしょう。

さいごに

もちろん、ブログを使っても同じようなことはできます。しかし、「本」というパッケージが持つ力は見逃せません。

どうしても「技術」の話は断片的になりがちで、それらを統一するコンテキストがないと、技術レベルの話に留まってしまいます。不思議な話ですが、技術の話をするためには技術の話だけでは足りないのです。そこで、コンテキストを統一するパッケージの存在が重要となってきます。

その意味で「本」は、将来にわたって欠かせない存在と言えるでしょう。ただし、主役と舞台は時代の変化に応じて変わっていくはずです。

ちなみに本稿は、「来るべき未来」風に書いてありますが、実際は「すでに起こりつつある未来」の話であることを最後に添えておきます。

» 知的生産の技術 (岩波新書)


▼今週の一冊:

まだ読んでいないのですが、すごく楽しみな一冊です。

読了したら、また紹介記事を書いてみます。

» 職業としての小説家 (Switch library)


▼編集後記:
倉下忠憲



一山終えた後片付けもだいたい終わったので、次の仕事に取りかかっています。とりあえず初期の足固めは終わりましたので、また執筆の日々が始まりそうです。


▼倉下忠憲:
新しい時代に向けて「知的生産」を見つめ直す。R-style主宰。

» ブログを10年続けて、僕が考えたこと[Kindle版]