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ノマドワーカー第0章:001まずはブログを書く

これからしばらく「ノマドワーカー第0章」というテーマで連載していきたいと思います。正直タイトルには迷いがあります。何かと物議を醸しがちな「ノマドワーカー」という言葉を使わなくてもいいのではという気もあります。

なんでもいいのです。フリーランスでも、独立でも、企業でも、自由人でも。ハイブリッド型ネオニートでも。何でもいいのですが「ノマド」という語が今のような広まり方を見せてしまっているのに、何事もなかったかのように「フリーランス」と書いてしまうと、それはそれであえて誤解を広げているようで釈然としないわけです。

本連載では「ノマドを今から自分が始めるとしたら、まず何をしなければいけないだろうか?」を考察するところから始め、「とりあえずこれだけはやるだろう」ということが出尽くしたところで終わります。

夏に休暇を少しいただき、ずっとこの問題について考えてみたところ、なによりもまず「今始めるとしたら欠かせないのはブログだ」という結論に至りましたので、今日はそれから書きます。

言いたいことも言えないのに自由であるということがあるだろうか?

ノマドとかフリーランスという語が想起させるのはなにより「自由だ」というイメージでしょう。しかし「自由とは何か?」とやり出すと1エントリではとうていおさまらなくなるので「不自由とは何か?」をとりあえず考えます。

私の脳裏を真っ先にめぐったのは「不自由とは言いたいことも言えなくなることだ」ということでした。

こういう定義をあててみると、有名人であっても不自由な人はたくさんいるし、年収がたくさんあっても(またはたくさんあるからこそ)自由に生きられない人はたくさんいます。

もちろんお金がたくさんあるなら、または毎日テレビに出られるなら、言いたいことの1つや2つガマンすればいい、という価値観もあるでしょう。そう言われればきっと私もそう思います。ただそれはそれなりに不自由だと思うのです。

おいしいものをいつも食べて、豪華なフィットネスジムに毎日通っているけれど、面白くもない人の話を聞きながら、面と向かって言われなくていいようなことを言われ放題に言われ続けて、それでも笑みを絶やさず自分の言いたいことは一言も口にしない。

ある意味でこれはとても立派な振る舞いだとも思います。でも「立派だ」と思うのは、私にはどうも真似できそうにないからです。あるいは相当の精神的努力を持って真似できたとしても、すぐ病気になってしまいそうです。

言いたいことも言えないのはなぜだろう?

以上は比較的わかりやすい事例です。お金をくれたり、カメラを向けてくれる人たちのご機嫌を取らないとならないから、「自由」をガマンしているわけです。そのようにしているうちに、ただ生きるためにどこまでも不自由を受け入れる危険もありますが、もっとわかりにくい不自由もあります。

想像してみましょう。一生食うに困らないだけのお金があり、とくにこれと言った組織や人間関係にも縛られていない。そしてもちろん日本語を操るだけの能力もあれば「自由に言いたいことを書くことができる」と思いますか?

「もちろん!」と答えられそうなものですが、意外とそうでないのだということが最近になって少しずつ分かってきました。私も数だけはあちこちで何エントリも書いており、その中には「佐々木さんの書きたいことを自由にお書きいただいてけっこうです」といって下さるメディアさんもあります。

しかしよく言われることですが「何でも自由にどうぞ」と言われるとはたと困ってしまうのです。

これは自分に言いたいことがないわけではなく、放談にならない形で言いたいことが言えないという意味でもなく、しかし言いたいことを言いたいという気持ちを満足させるように、誇張せずにあまさず書くというのが非常に難しいというだけのことなのです。

非常に難しくても、これができないととても「自由に生きている」気がしないのです。フリーランスであろうとノマドワーカーであろうと、それだけで自由になれるわけでないのは当然です。冒頭で述べましたが私の考える「自由」のミニマムは「言いたいことを言う」ことです。

少なくともノマドワーカーをやるなら、自由に言いたいことくらいは言えるようでありたいのです。

唯一の選択肢であるブログ

するとほぼ唯一の選択肢としてブログが浮かびます。もちろんブログを書かねばならない理由はまったくないとも言えるのですが、ブログ以外では、自由に言いたいことを言った上、それを可能性としては誰のことも排除せずに届けられるメディアがないのです。

大新聞の社説欄に意見を述べられるからと言って、執筆者が必ずしも「言いたいことが言えている」とは限りません。メディアがチャンネルを用意してくれるということと、言いたいことが言えるかどうかは、関係ないのです。むしろメディアにチャンネルを用意してもらうと、言いたいことを抑制するように自然となりやすいものです。

学校教育も、関係あるようでそんなに関係が深いとも思えません。少なくともマスメディアも学校もなかったとしても、人は言いたいことが言えるようにはなれないでしょう。手段も豊富にはありません。駅前で拡声器を使って言いたいことを一生懸命伝えるにしても、聞いてくれる人の数には自ずと限りがあります。

以上のようなわけで自由に生きたければブログを書く必要があると思います。お金にならなくても、多くの人が読んでくれなくても、出版に結びつかなくても、言いたいことが言えるようになれば、その分の自由を満喫できてきます。

逆に、PVを多く集め、当然お金にもなり、出版できたとしても、そのために言いたいことをとことんおさえるようで、それで自由だと言えるだろうか、とも思うのです。

▼編集後記:
佐々木正悟

先日J-WAVEで別所哲也さんという方にインタビューしていただきました。「別所哲也」さんというお名前はこの折初めて知ったのですが、「ゴジラ対モスラ」に出ていた方だということを知り、衝撃を受けました。子供の頃あの映画が大好きで、親に隠れて(隠れる必要はなかったのですが)何度も見た記憶がぼんやりとあるのです。

ラジオでのインタビューという経験は生まれて初めてのものです。印象はうまくお伝えできませんが、生まれて初めて美容院に入ったときの感じと似ています。「なんという、髪を切るために特化された空間だろう!」と感心しました。同じように「なんという、録音することに特化された空間だろう!」といったところです。

私の基本的な性格は「無駄が苦手」なので、そのような「特化された空間」は好きです。無駄のない感じがするからです。ただ、なにぶんにも慣れていないところだったため、ブティックや美容室と同じく、私には居心地のいい空間ではありませんでした。

そんな慣れない空間でもさすが別所哲也さんだけあって、驚くほど上手に誘導していただきました。

J-WAVE TOKYO MORNING RADIO 別所 哲也 :J-WAVE 81.3 FM